【KI-LALA☆】こと、水野雲母



埼玉県川越市生まれ。

子供の頃からふれあってきたピアノ、
歌、言葉・・・。
女性ならではの情緒豊かな詩的感性と、
大人が聴かせる染み入るような澄んだ歌声。
大らかさと繊細さを併せ持つ自然な音楽が織り成す世界観。

独自の感性を活かし、
ピアノで弾き語る女流歌人として活動している。
アーティストとしての側面を持ちながら、
オリジナル曲だけでなく様々なジャンルの曲を歌いこなす。
幅広い音域と表情豊かな声を活かし、多種多様なレパートリーを持つ。
洋楽はスタンダードJAZZやPOPS、邦楽は、ポップスは勿論、歌謡曲、演歌、童謡等を歌い、
ジャンル枠を超えた表現力を持ち合わせている。

2008年水野美保からKI-LALA☆と改名。
KI-LALA☆作詞『クリスマスの詩』を提供し、
コロムビアミュージックエンタテインメントより発売。
同年11月、1stシングル「Tila〜ゆくえ」でデビュー。
2010年にはミニアルバムも発売。現在メジャーデビューに向けて精力的に活動している。




数多くの芸能人を指導したボイストレーナー笠井先生や、
日本・アメリカでレコード会社の契約歌手として活動しているアメリカ黒人シンガー『ロビーダンジー』に師事し、音楽を学ぶ。

その後マイペースにライブ活動を続けていたが、
突然CD発売の話舞い込んだ。
『クリスマスの詩』を世に出したいと。

だが、よりKI-LALA☆らしいイメージの曲を出したいと
2008年11月「Tila〜ゆくえ」全国リリース。

作詞を手掛けた「クリスマスのうた」(原曲:クリスマスの詩)は、コロムビアミュージックエンターテインメントより発売となった。


【芸歴】

20058年11月作詞家としてコロムビアミュージックエンタテインメントよりメジャーデビュー
2008年11月「Tila〜ゆくえ」でデビュー
2009年「Miracle」「Love of Fate」着うた配信
2010年2月3日全国発売オムニバスCD「Nakara Shinsyu」に「Miracle」収録。
2010年6月15日初ミニアルバム全国発売
『Sensibility〜みえないもの』


「Tila〜ゆくえ」について
エピソードはこちら
↓↓↓
KI-LALA☆shanti

元バスガイドの特性を生かし、ステージで観光案内はしないけど司会もたまーにやっています☆


『KI-LALA☆になるまで』
『私の人生語ります』

子供の頃から歌が好きで自ら親に頼んでピアノを始める。
占いも興味を持ち始め
小学校4年生くらいにはホロスコープを作成。
ホロスコープより読み取り
『芸術家向き』という特性を知る。

中学校から文学詩を授業中に書き始める。
高校で心理学を学ぶ。

卒業後埼玉医大附属看護学校が決まっていたが、
2月から就職活動し何故かバスガイドになる。
仕事は徹夜で勉強したり充実していたが、
やはり音楽がやりたくて退社。

ライブバーでアルバイトを始める。
その時に白井たかこさん(『Miracle』作曲者)はじめ、
プロのミュージシャンに可愛がってもらいながら聴く耳を育てた。

だが突然、好きなひとを海外追いかけてゆき、
こっぴどくフラレる。
リュック一つ、初めてひとりで海外に行き、人生なんとかなるさ!
という妙な度胸を身に付けた。


その影響で翌年、ワーホリでカナダに渡る。
出発前、バイト先のお姉さんから
『バシャール』という本をもらう。

『バシャール』には『ワクワクすることをしなさい』と書いてあった。

カナダではプール付き夜景が綺麗な高層マンションで優雅で、のびのびした生活をエンジョイし、一生の友達にも出会う。

帰国後『バシャール』のいう通りに素直に
『ワクワクすること』を行動。

以前ライブバーで知り合った人が
『最初は経験があると偽って歌の面接にいった』と聞き、マネをする。
しかも採用されてしまう。

オカマが店長、従業員がホモという奇妙なスタッフのいる新宿のピアノライブレストランで、スタンダード中心に歌い始める。

だがいきなりのステージがプロではプレッシャーだった。自信をなくし歌が嫌いになってしまう。

その後も六本木で歌っていたが、
そこで知り合った女子大生の紹介で、
ジャズキダリスト水口昌昭氏
(『クリスマスの詩』作曲者)と出会い、
『詩を書いてる』と話したことをきっかけに一緒にオリジナル曲を作りはじめる。

ところがその後、
ヒップホップダンスにはまり、ダンス三昧の日々となる。
外見もアフロになり人生が一変した。

同時期に外国人とルームシェアをするようになり、
たまたまルームメイトとしてオーストラリア人の歌手と知り合う。

黒人のプロミュージシャンのライブによく連れていってもらった。
そして彼女の紹介で恩師ロビー先生に出会う。
『歌は魂』と先生が何度も私に言った言葉はずっと忘れない。

その後は石原裕次郎より以前に人気だったという芸能人故山田真二さんのご縁で、
業界の大御所笠井先生と知り合いレッスンをうける。

この頃から六本木からのご縁で赤坂のピアノラウンジで歌い始めた。
秋元順子さんも専属歌手で同じステージに立っていた。
気さくなひとでしたよ。


ところが危機がやってくる。
ウツ状態になり歌えなくなってしまう。

ルームメイトの歌手の子とたまたまいったライブの帰り道、
路上で『ふるさと』の演奏を聞き、何故洋楽を歌う必要があるのか疑問をもちはじめる。

日本語で歌いたい。

『クリスマスの詩』が生まれた。

それからも音楽にずっと迷い続けたわたし。。

そんな迷うこころや何度もウツになった私を救ってくれたのがヒーリングでした。

たまたま知り合った人がマウントフジフラワーエッセンスの事務所で働いていたことがあり、

ヒーリングについていろいろ教えてくれた。
ところがそのうち私の言うことが当たると、
だんだんいろいろと聞かれるようになるが自分では半信半疑だった。

はじめはおもしろくて友達を占うようになる。
それが悩み相談で電話料金が度をこすようになったため、
初めて占いでお金をいただくようになる。

同時にマイスペースにライブ活動をしながら、
フラワーエッセンスとカウンセリングも学ぶ。
『クライアントの問題は自分の問題でもある。

自分のエゴでクライアントを良くしようとしてはいけない。相手を操作してはいけない』
など大切なことを学んだ。


繰り返しヒーリングを受け、自らを見つめ、様々な出会いと体験を重ねて自然とヒーリング能力を身に付けてゆく。
時に占いを時にスピリチュアルな感性を生かし、
セッションだけでなく、時々セミナーなども開いていた。


そんな中、アリアの藤井美弥さんに
『運命の輪』を回すセッションを受ける。
『CDを出したい』と運命の輪をまわした。

その半年後、クライアントだった業界の方にたまたま間違って渡したCDに『クリスマスの詩』が入っていて、
その曲を気に入ってもらい、発売することになった。

それでもまだ音楽に対して迷っていたが、
皆さんの応援もあり、だんだんと気持ちが固まる。
2008年『Tila〜ゆくえ』発売を機に
真剣に音楽と向き合うようになる。

音楽を通じて癒したいと、
こころから思い始めた。
夢を実現させてゆくことで希望そのものを伝えたい。


こうして『KI-LALA☆』が誕生した。


ワクワクすることを行動し、
不思議な出会いが重なり、
つながって今こうして此処にいます。

そして・・・
デビューシングルの『ゆくえ』の書は
亡き父が書いた最後の書です。
デビューが決まった5月から抗がん剤治療を始めましたが、
私のデビューを待って2週間後、天国に行ってしまいました。

父から教えられた事は
今も私の心にあり
共に生きていると思っています。

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