SHORT

□転じて..
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得意先相手の接待の最中
七海の胸ポケットで
携帯が振動した
目の前の相手は上機嫌で熱弁を奮っている
着信の相手を確認するわけにもいかず
七海は無視を決め込んだ
やがて振動が止む
急用ならまた掛かってくるだろうと思ったが
その後携帯は振るえなかった

20分後
店の外でタクシーに乗り込む相手に
頭を下げ見送ると
七海は携帯を取り出し
着信相手を確認した
名無しさん
すぐさま折り返しを掛ける
2コール目で
「はい。」
と小さな声がした
「出られなくてすみません。どうしました?」
「忙しい時にごめんね。
 あの..でももう大丈夫みたい。」
名無しさんの声は言葉とは裏腹に
怯えを含んでいた。
「何かあったんですか?今どこです?」
言いながら七海の足はすでに名無しさんの自宅に向かって歩き出していた
「家にいるんだけど..お仕事大丈夫なの?」
「今終わりました。とにかく今はあなたの方です。
 すぐ行きますから。」
「あ!七海!...電話切らないで..
 話さなくてもいいからこのままでいて。」
七海が立ち止まる
「そこは安全ですか?大丈夫なんですか?」
手を上げてタクシーを止め乗り込む
運転手に行き先を告げ急いでくれるように言う

名無しさんの帰宅後
エントランスからのインターホンが鳴り
受話器をとると若い男の声だった
「さっき下で会いましたよね。」
「??いえ。違います。」
気味の悪さを覚えそれだけ言うと受話器を置いた
また鳴ったら嫌だなと思ったが
その後インターホンが鳴ることはなかった

5分後
今度は部屋前のチャイムが鳴る
警戒して応答はしなかった
名無しさんは怖くなって七海に電話を掛けた
しかし出ない
すると2,3度チャイムが鳴らされ
ドアをドンドンと叩く
ドアノブがガチャガチャと回され
終いにドアを蹴る音が一際大きく響いたと思ったら
突然音が止んだ
気が済んだのか
諦めたのか
シーンと静まり返る
怖くて近づく事も出来なかった玄関の覗き窓を
恐る恐る覗いたが
そこには誰もいなかった

タクシーの中で事情を聞き
車を降りた七海は
急いで名無しさんの部屋に向かう
その間もエントランスの様子や
エレベーターのあたりを見回したが
特に変わった所は無かった
繋がったままの携帯で
「着きました。」
と声を掛け電話を切る
玄関を開けた名無しさんは
不安を隠して作った笑顔を張り付けていた
「ごめんね、心配させて。
 もう大丈夫みたい。無駄足させちゃった。」
申し訳なさそうに話す名無しさんを抱き寄せる
「無事でよかった。怖い思いをしましたね。」
優しく頭をポンポンと撫でると
グスグスと鼻を啜る音がする
「怖かった..」
名無しさんはべそを掻きながら
七海のスーツの裾を掴んだ

ソファに名無しさんを座らせ
暖かいカフェオレを入れる
ローテーブルにカップを置き
名無しさんの隣に座ると
腕を回して引き寄せた
「落ち着きましたか?」
「ん..」
七海は引き寄せた肩を何度も優しく摩った
「また..来たりするかな?」
「どうでしょう。向こうの目的が分かりませんからね。
 いずれにしてももう私がいるので大丈夫です。
 名無しさんは何も心配しなくていい。」
「七海 明日も仕事だよね?」
「あなたもでしょう?」
「うん。...泊まって...いったりしないよね。仕事だもんね。」
七海は小さく溜息をつく
「こんなに震えて怯えている恋人を一人で置いておけると思いますか?
 帰れと言われても泊まります。」
名無しさんは七海の胸に顔を擦り付けた
「ありがとう。七海がいてよかった。」
「私もそう思います。
 名無しさんは強がる節がある。
 こんな時に傍にいて安心させる男が私でよかった。」
「えー。強がり?」
「おや?自覚無いんですか?」
...
「名無しさん、明日もここへ帰ってきます。
 でなければあなたが私の家へ来るのもいい。」
名無しさんの両腕が隣に座る七海の身体に巻き付く
「うん。七海 好き。」
ぎゅっとありったけの力を腕に込める
「もっとぎゅっとしてください。」
七海が珍しくそんなことを言うので
「んんーっ」
と名無しさんが更に力を込めた
七海がふっと表情を崩した
「足りませんね。」
そう言うと体を向き直し
座ったまま両腕で名無しさんを思い切り抱きしめた
「このくらいです。」
「..七海 苦しい..」
「もう一緒に住みませんか?」
七海の腕から力が抜けると
諭すような声でそう言った
「こんな状況で言うのは付け込むようで適当でないかもしれませんが
 その方が私も安心です」
一瞬驚いた名無しさんだったが
もそもそと七海の膝に跨ると
「そうしよっかな..」
と七海の首の後ろで両手を組んで
屈託のない笑顔を見せる
その笑顔に七海は愛おしそうに目を細め
「カフェオレ 温めなおしましょう。」
と弧を描く名無しさんの唇を親指でなぞった

翌朝
玄関を開けると
挙動不審な年配女性がうろうろしている
名無しさんと目が合うと
「夕べ うちの息子がご迷惑しませんでしたか?」
と問いかけてきた
なんでも帰省中の息子が
飲みに行って帰ってくると
部屋の階数を間違えてチャイムを鳴らし
鍵を閉めて寝てしまったと思い
ドアを叩いたと言っていたらしい
何度も謝ってくる女性に強く抗議する事も出来ず
次は気を付けてとだけ言うとその場を離れる
あれ?じゃあインターホンは誰?
ともチラついたが
いっか もう引っ越すし
と名無しさんは晴れ晴れとした気持ちで出勤した


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