SHORT

□次の約束
1ページ/1ページ

「着いてしまいました。」
運転席の七海さんが前を向いたまま言った
「はい。」
名残惜しくて
なかなかドアを開けられない
もうちょっと一緒にいたい
そうできたとしても
やっぱり帰り際には同じことを思うんだろうけど
降りないと迷惑かな
早く降りろって思ってるかな
明日朝早いって言ってたし
引き止めたら悪いよね
「名無しさんさん?降りないのですか?」
「いえ、降ります..」
七海さんの言葉に諦めてドアに手を掛ける
「降りるんですか?」
「え?」
意外な返事に驚いて七海さんを見つめる
「いえ、降りないのならもう一回りでもしようかと。」
「じゃあ..降りません。」
そう呟くと
七海さんはフッと表情を緩めて
ゆっくりと車を出す
「いいんですか?明日早いって言ってたのに、
 わがままに付き合ってもらって。」
「もう少しドライブをしようと言ったのは私です。」
「でも、私がなかなか降りないから」
「心の中で降りるなと念じていたんです。」
鼓動が一際ドクンと脈打った
「七海さん..揶揄ってます?心臓に悪い..。」
胸を押さえながら前を見ている七海さんの表情を盗み見る
いつもと全く変わらない
無表情とも言えるほど
「すみません。そんなつもりはないのですが、
 あなたを帰したくなくて。」
射貫かれたように一瞬心臓が動きを止め
それからあり得ない位の速さで動き出した
心臓の音が
車の中に響いてしまうんじゃないかと思うくらいに
言葉が見つからず
無言になってしまう
せっかく一回りの時間が増えたのに
沈黙で時間を無駄にしてしまった
5分程の一回りで車は停車する
どうしよう
今度こそ降りなければ
「名無しさんさん」
シートベルトを外した右手が
七海さんの大きくて骨ばった手に抑えられる
「今日は帰します。
 ですが次は..返してあげられるか分かりません。
 それでもまた会っていただけますか?」
七海さんの端正な顔がまっすぐ私を見つめている
何と答えたらよいか分からずに
何とか言葉を吐き出す
「覚悟しておきます。」
「覚悟..」
とんちんかんな私の答えに
困ったような顔をして
七海さんは私の手を離した
「また連絡します。おやすみなさい。」
「おやすみなさい。」
車から降りると七海さんは片手を上げ
それから車は滑り出した
小さくなっていくそれを見つめながら
この恋が小さく動き出したことを実感した


次の章へ
前の章へ

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ