水泡にきす

□その壱
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美しい声だった。

例えるならば、汚れ一つ無い水が、さらさら静かに流れていくような。
春の桜の、凛々しく咲き、また直ぐに儚く散っていく様のような。
とても不思議で、神秘的な印象を受けた。

日本語ではないらしい『それ』は、何処の国の言葉なのか見当こそ付かなかったが、歌であることは分かった。

確か神話か何かに、セイレーンという名の歌う海の魔物がいたのをふと思い出す。
セイレーンは、その歌声の美しさで船乗り達を魅了し、船を沈ませたという。
今聴こえるこの声にも、同様の恐ろしさがあった。




カツカツと靴音を反響させ、薄暗い廊下に現れた男は足を止めた。
横浜を牛耳るポートマフィアの五大幹部が一人____中原中也は、たった今首領の森鴎外に、本日の仕事の報告を済ませてきたところだ。
腕時計に目をやると、時刻は深夜の一時。もう遅い。
更に、今の季節は冬である為に冷え込む。

自宅へ帰って休もう。そう考えていた時に、その歌声は聴こえてきたのだった。

誰かが音楽でも聴いているのか。最初はそう思ったが、どうも違う。
これは、生身の人間の声だ。


考えられる可能性は今のところ二つ。

一つ目は、組織の中の誰かが歌っている可能性。
しかし、これ程に美しい声を持った者が居ただろうか。思考を巡らすが、思い当たる人物はいない。

二つ目は、侵入者が歌っている可能性。
否、それはないだろう。
此処は泣く子も黙るポートマフィア。見つかれば即刻殺される。極秘任務も良いところだったろう。なのに歌を歌うなんて、そんな馬鹿は流石にいない。

二つ目の可能性は排除したいところだが、疑わしいと思ったならば放っておく訳にもいかない。
そう。万が一侵入者であったなら、排除するべきなのだ。

これは確認だ。

中也は、半ば自分に言い聞かせるように頷く。そして、声のする方へと再び足を動かした。



___本人は気づいていなかった。
確認だと思いつつも、その歌声に近づきたいと考えている自分がいることに。まるで、操られているかのように止まらない足に。
近づけば近づく程声は大きくなり、外からの音なのか、それとも脳内からの音か、区別が付かなくなっていっているという事に。

次第に頭も働かなくなり、意識が朦朧としていった。


これはまずい。そこまできて本能でそう察した中也だったが、矢張り体が言うことを利かない。
まぁ、このままでも良いかという気さえしてくる。

そうして殆ど意識の無いまま歩き、ついにどさりと倒れ込んだ。
丁度、歌の聴こえてきた扉の前だった。

其処は、かつて森がその部下達に再三言い聞かせていた場所。
五大幹部でさえ、何の部屋なのか詳しくは教えてもらえなかった、とある部屋。



『いいかね?
その扉は、誰一人として開けてはならないよ。
何故なら__…』



外部からの突然の音に、部屋の中のものはびくりと反応する。
そしてその首をかしげると、ゆっくりと扉に近づいた。
ドアノブに、恐ろしい程白い、血の気の感じられない手を掛ける。
ガチャリと音を立てた。




『そこには、【魔物】が住んでいるからね…。』




部屋の明かりが、廊下に倒れた中也を照らす。
倒れた彼を見下ろす魔物の目が、紅く見開かれた。
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