るろうに剣心長編夢


□籠の蝶
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【第一夜】




この先に伸びるのは血に濡れた道。

理想と呼べるものは唯一、人の屍の上に築かれた未来。


それでも、


「貴方はその剣を振るうのですか?」


そう問いかけた先、消えぬ傷を頬に刻み、凶刃を片手に持った男は薄く笑った。

長い頭髪は夕陽を受けてか、あるいは数多もの命を奪ったが故か、流れる鮮血のように朱く染まっている。


「弱い者が虐げられている、今の徳川の世は終わりにしなければならない」


そう強い口調で言った男。
頬の十文字の刀傷さえなければ、その整った顔は侍などに到底見えぬ。


「弱き人も貧しき人も、誰もが自由に生きられる時代が来るのなら、俺は鬼とも人殺しとも呼ばれても構わない」


時は幕末。

江戸という一つの時代が終わろとしている中、変革を志す戦いに身を投じた人斬りがいた。



彼の名は…、




「緋村抜刀斎?」


杯を傾ける手を一瞬止めて、比古清十郎はこちらを見た。

室内には強い香の匂いが立ち込める。

遊郭の一室、花魁の中でも太夫にのみ与えられる座敷は外界から隔絶された密室という性質上、秘密のやり取りを行うにはもってこいの場所だ。
事情を知らぬ人は此処を女を縛る牢獄、女を籠の中の蝶のように言うが、少なくとも遊女である自分にとっては此処で起こること全てが思い通りになる最高の城である。

紫は徳利を持ちつつ、比古の顔を覗き込んだ。


「ほら…前に猫を一匹、拾ったと言っていたでしょう?」

「…そうか、それが今の奴の名か」


何かに気づいた様子の比古は一瞬ばつが悪そうな表情をして、酒を一気に煽った。
彼は紫の馴染み客であり、ここ数年はある依頼をしてきていた。

“突然飛び出して行った馬鹿弟子の居場所を探ってほしい”

此処は世間が知りえない秘密が当然のように飛び交う場所。腕の良い侍が居れば話題に上ると考えたのだろう。
そして、その考えはどうやら当たった。


「ここ最近、維新派のお客も増えていましてね。その中に気になるお侍さんがいるんです。頬に十字傷、血も涙もない人斬りだとか」

「…ほう、それがアイツだという確証は?」

「一度会いました。とても、真っ直ぐな目をしている方で、こうも言っていました。自分は孤児で、拾われた。剣術はその人に習ったと…」

「…」

「本当の名を剣心、と言うそうですね」

「…!」


紫が言い終わるか否かの前に、比古は盃を荒々しく置いた。


「…清十郎様、」

「言うな。アイツには、俺のことは絶対に言うな。もともと破門した弟子だ。何処で何をしていようと、俺には関係ねぇ」

「…そうですか」


愛弟子が自分の教えた技術で人を殺している…その事実を、比古はどう思ったのか。
きっと心穏やかではないに違いない。

紫は心配しながら、比古を見遣るが。


「…そんなことよりも。一夜の逢瀬を愉しもうぜ?」


不意に比古は紫の顎を掬い、ぐいと引き寄せる。
与えられるのは、噛みつくようで、丁寧な口づけ。丹念に舌で唇の表面を、奥を嬲られる。

比古の顔からは先ほどまでの憂いは当に消え、代わりに隠しもしない情欲が浮かんでいた。

比古との行為を、紫は嫌とは思わない。むしろ当たり前のように受け入れる。


「…清、十郎っ」


ふと呼んだ名前は、口づけにもぎ取られ。

何も語らなくとも、彼の煮えたぎるような激情を孕んだ双眸と傷ついたような表情から全てが悟れる気がした。

好き…

何度言葉にしようとして、何度諦めたのか。
そして代わりに、紫は比古の逞しい首に細い上肢を回し、しっかりと抱き締める。

たった一夜の交わり、それがこんなにも辛いものだと比古に会って初めて知った。

自分は遊女だ。
廓から出ることも、好きな相手に想いを告げることも叶わない。夜が明ければ夢から覚め、自分には帰らなければならない現実があるのだと気づかされる。


「…っ、抱くぞ、紫」

「…、どうぞ好きにして、くださいませ…」


着物や化粧で着飾った身体を易々と抱き上げられて、褥に降ろされる。

帯を解かれる瞬間は、いつも花魁の顔の下に隠れた本当の自分を暴かれそうで怖くなる。
隙なく着込んだ着物の胸元も、普段は長い裾に守られた太ももも、呆気なく男の視線にさらされて。まるで必死に身を守る鎧を剥がされたかのように、無防備な女の心が露呈する。

かむろに結わせた髪が乱れるのも気にせずに、紫は横たわったまま比古だけを見つめていた。

今はまだ、彼の弱みを自分だけが知っているという事実だけで、良い。



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