小説
□Vitrum opticum
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背中を丸めて歩く下呂阿古哉というのは、至極珍しい。彼を知る者、つまり眉難高校のすべての生徒にとって、見たことのない光景だ。
しかも、うつむいて、力が抜けたような呆けた足取りで校庭を歩いている。
いつもスラリとした長身をまっすぐに伸ばして、咲き誇る花よりも華麗な顔(かんばせ)を、ひけらかすようにして、威風堂々と歩くのが常だというのに。
(……いけない、いけない。こんなことでは、僕の美しさにも悪影響を及ぼしてしまう)
阿古哉は、つい今しがたの有馬の表情を思い出していた。意識を逸らそうとするが、うまくいかない。
生徒会でいつも一緒に行動している有馬燻は、何を考えているかわからない男だ。それでも、その視線の先に誰がいるのかなんて、さすがに気が付く。いつも一緒にいるのだから。
(なのに僕は、有馬さんと、あんなコト……)
「された」と言うほど、一方的ではなかった。殴り飛ばして拒否することも、出来たと思う。腕っ節には自信がある。
そういえば有馬も、あれでけっこう力がある。つまずきそうになった阿古哉の腕を引っ張って助けてくれた時は、「痛いですよ、痣になったらどうしてくれるんですか!」というレベルの力だった。
(僕じゃなくて草津会長にだったら、もっと優しく……お姫さま抱っことか、しそうだよなぁ)
そう。草津は、有馬にとって特別なのだ。
近くの物が見えすぎることってあるんだな、と思う。
ふと、靴の爪先に何かが当たった。
「メガネ?」
うつむいて歩いていたおかげで、踏み壊してしまわずにすんだそれを、何気なく拾い上げる。
視力を矯正する必要はない阿古哉だが、メガネやコンタクトレンズをファッションのアイテムとして取り入れる最近の傾向は、悪くないと思っていた。よく見れば、レンズの形やフレームの作りもまぁまぁだ。
こういったものを使えば、イメージチェンジになって、気分も切り換わるかもしれない。
一応、周囲に人目がないか確かめてから、そっとそれを装着してみる。
「わぁ……」
瞬時にして、目に映る物の色が変わった。
*****
「草津会長、有馬副会長、ごきげんよう」
長引いたホームルームの後、生徒会室にやって来た3年生2人は、澄んだ柔らかい声で迎えられた。
「……ごきげんよう、阿古哉」
一瞬だけ固まったものの、草津はすんなり応じる。上流階級にふさわしい上品な発声と挨拶に気を良くした証拠だ。
「阿古哉、早いね。しかも……」
有馬の方は、少しばかり辛辣に応じる。
毎日来なきゃいけない決まりはありませんよね、と言って、来ない時は来ないマイペースな阿古哉が、今日は、いちはやく来ている。そればかりか、会長の執務机には、万年筆と書類が用意され、クリップやクリアファイルetc.こまごまとした文具まで出されていた。
「早く来たので、会長のお仕事道具を揃えておきました」
ただし、それは雑然と脈絡なく出されているだけで、「並んでいる」とは言いがたい。
「用意がいいのはわかるけど、整理整頓されてないね。阿古哉に似合わず美しくないよ」
有馬がこの程度の言葉を投げかけるのは、いつものことだ。
躍起になって食ってかかってくる阿古哉の反応が面白いので、ひそかな楽しみになっている、などと口に出したことはないけれど。
「ごめんなさい。こういう仕事は、いつも有馬さんがして下さるので、少しでもお手伝いができたらと思って……」
「ほう……殊勝な心がけではないか」
「錦史郎、すぐに整理するよ」
「いや、このままでいい。みな必要な物ばかりだ。使っているうちに散らかるのだから、最後に片付ければすむ。さあ、ミーティングを始めるぞ」
「はい、会長」
さわやか過ぎる、好感度の高い抑揚に、有馬は耳を疑った。阿古哉のこんな声は初めて聞く。
と、草津が、違和感を指摘した。
「ところで、そのメガネ、なかなか理知的に見えるではないか」
昨日のメガネをかけている阿古哉は、いつもの華やかすぎるほどの個性をシフォン生地で覆ったかのようだ。
「ホントですか! ありがとうございます。何だか近くの物が見えすぎちゃうので、かけてみたんです」
有馬は、ちょっとばかり固まった。
(何か、企んでるのかな……)
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