小説
□意地悪な距離
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阿古哉は、生徒会室の黒板の文字を消していた。さきほど終了した生徒会幹部会議の後片付けだ。
幹部の3人で話し合った案件を黒板に書き示し、同時にノートにも記録してゆく。書記としての大切な役割だ。
「よし。予算やら日程やら、決定事項がいくつも片付いたな。実りのある会議だった」
会長の草津は満足そうな微笑を浮かべていた。彼のそういう姿は、いかにも支配者らしくて、阿古哉の目にとても美しいものとして映る。美しいからこそ、阿古哉は彼の下についているのだ。美しくないものは視界に入れることすら汚らわしい。
特に今日は、学食にフィンガーボウルを導入するための予算案を、煮詰めることができたのは、大きな成果だった。
「今まで考えたことなかったけど、確かに美しく食事をとるためには必要ですよね。指先が汚れるのは醜いし、衛生上の問題もあります」
「そうだな。有馬、よいところに気が付いた」
「いえいえ。ほんの思いつきだよ」
2人に褒められているのに、副会長の有馬はにっこり笑うだけだ。笑うことは笑うが、そもそも有馬というのは、常に笑っているような男だ。だから、その笑いの種類がどういうものなのかは、実際よくわからない。高校1年の時に生徒会役員になって、1年以上の付き合いになる阿古哉だが、それでもわからない。
そんな会議が済んで、草津会長は職員室に書類を提出に、有馬副会長は――――いつものように、執事のごとく――――お茶とお菓子の用意をしに、そして阿古哉は――――下働きのように、もとい書記として、機密事項をたくさん書いた黒板を下っ端に見せるわけにもいかなくて――――黒板消しの真っ最中だ。
「チョークの跡が残ったりしないように、美しく消さなきゃね。……ったぁああ!」
慣れない肉体労働(?)に手元を狂わせた阿古哉は、黒板消しを飛ばしてしまった。それは、クルクル……と回転したのかしないのか、よりによって、最悪のコースを描いた。
「いやああああっ!」
ぼふっ、と鈍い音を立てて、阿古哉の美しい髪に覆われた脳天が、チョークの粉まみれになる。
汚れてしまった。この世界で誰より美しい自分が。しばらく茫然としてから、冷静に対処するべく、鏡を見る。我ながら、まぬけな姿だ。
「やだなぁ……有馬に見られたら、馬鹿にされちゃう」
草津なら無表情に「早く拭け」くらいしか言わないだろうが、有馬という男は、いたって優しい立ち居振る舞いをしながら、からかってくるに決まっているのだ。
草津はいつも無表情だし、自分にも他人にも厳しい男だからともかくとして、有馬は何となくヌルイ性質のくせに、阿古哉の容姿を褒めた試しがない。
これまでの阿古哉の人生で、老若男女を問わず、阿古哉を美しいと称えることができなかった者は、愚にもつかない阿呆どもばかりだ。
(それに……何となく、威厳を感じられないんだよなぁ)
仮にも先輩に対して失礼なことだが、頭の中では「有馬」と呼び捨てにしている。そこへ。
カチャ、と音がして、ドアが開く。
「ひあああっ」
阿古哉が叫ぶ。茶器を携えた有馬が入ってくる。しばしの沈黙。
「〜〜〜……」
情けない顔をして固まってしまった阿古哉の様子を見て、有馬はクスリと笑う。
「阿古哉、かわいい表情してるね」
「――――! な、な、何……ッ!!」
「そういう生き生きとした表情、好きだなぁ」
汚れた姿でいる時にそんなことを言われても、嫌味なだけだ。
「み、見ないでくださいっ! それ以上……っ」
かろうじて、それだけ叫んだ阿古哉に背を向けて、有馬は備品が入った引き出しをゴソゴソしだす。
(有馬ってば、黙ってるつもりなの? いや、変に声をかけられて慰められても腹が立つけど……)
阿古哉の身長は179センチ。最も理想的なプロポーションにふさわしい数値とされている。同じクラスには自分より背の高い者がいないが、有馬は更に5センチ高い。そんな長身の目線では、無様に汚れた頭頂部が目の当たりになるはずで、いたたまれない。
(そもそも有馬ってば、何やってるんだよ……)
思ったことを口に出せずにいたところに。
「じゃあ、ぼくは外に出ているよ。失礼します、お姫様」
ゴソゴソを終えて、長身の体躯をなめらかに操って、静かにドアを開け、閉める。
「あれ……?」
見ると、ティータイムに使っているローテーブルの上には、濡れタオル、ヘアブラシ、ネイルブラシ、エチケットブラシが並べられていた。
「……気が利くじゃない……さすがに」
阿古哉は、そう呟くしかなかった。
短時間でテキパキと、これだけのグッズを取り揃えて出て行ったのは、日頃から人の世話を焼き慣れている有馬だからこそと言える。大丈夫? とか、ひどいなーとか、ありきたりのセリフは言われなかった。
ともあれ。有馬が揃えて行ったグッズのおかげで、阿古哉はチョークの粉をすっかり払い落とすことができたのだった。
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