掌編

□初恋
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202005221013

「ごめんなさい、遅刻した」
 慌てて走っていった。
相手は変わらず此方を見下ろしているだけだった。山のなかに一人立っていて、いつも一日中そこにいる。
「あの、こんにちは」
挨拶すると、なんだかほっとした。
返事は相変わらず無いけれど、そんなものを逐一求めてまで他人を想う必要はない。
「山に、いってくるの久々で……」

足元に座って、私は語る。
こんな風にぼんやりするのがすきだった。「気になる相手がいたらおしえてくれ」と言っていた友人たちには、結局言っていないことも含めて、幸せを感じている時間だ。

 気になる相手、の次元が違う。
だから、私は言うこともなかった。
言って、友情が崩れてしまうのがわかる。だって彼女らは喋れば必ず返事がもらえ、体温や性別がある、贅沢な条件にしか相手を愛せないのだからだ。
意見が割れ、孤立が目に見えた。

 石のようにひんやりと冷やされた肌にはいくつものブレスレットがしてあって、痛々しいひっかき傷も見受けられる。カレンダーの挿絵で見た風景の通りに、それは飾りけもなく、黙って佇んでいる。
あまりにも感動的なこの雰囲気のなかに、木や草の息吹も混ざっていた。
これ以上に、言葉が要るとは、思えない。

 寝ても覚めても、頭から離れない。
異常であれ、正常であれ、どんな他人よりも素晴らしく思ってしまう。
この思想は彼女たちに劣らず正常だった。
そっと足元に来て、ひんやりした肌に触れ、確かにある言葉に耳を済ませながら今日一番の笑顔をみせる。
喋るのも得意じゃなく、言葉を選ばずに、何も気にせず、会話すらなく、けれど、動悸が収まらないので、顔は熱いままだった。

「楽しいね」

 風で、マフラーの裾が揺れ、あわてて掴みながら寄り掛かる。
 時間差で、口の中にさっき飲み干した缶のココアの味がした。
「友達と話していると、自分が嫌になる。何もかも否定されてくの。
もう、全部否定されてくのよ。
会話、体温、性別、
人生観、全部、台無しな気持ちにされてくのよ。

あなたは、そういうの、ある?」


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