◆恋〇記NL小説◆

□【文花・犬パロ】荀文若と犬文若
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(ありえない……)

 ある朝のことである。己の屋敷で荀文若は途方に暮れていた。目覚めたところなんと犬になっていたのだ。

 鏡など見ずとも察せてしまう。あまりにも大きく見える世界、喋ろうとするたびに口から飛び出す「ワンワン!」という吠え声。己の手に視線をやってみても完全なる犬の手だった。肉球はあれども爪の出し入れはできず、ほのかな野性味のある前脚は犬のものだろう。

 己の体表を覆っているのは黒く短い柔らかな毛並みで、尻から突き出すように生えており、意のままに動かせる短い縄のような何かはしっぽであろう。そして、とどめに犬らしく細長く突き出た口吻である。

 犬畜生となり果ててしまった文若は困った様子でその場をウロウロとし始めた。

(ありえない……。ありえない……。こんな……。こんな……)

 すると、やにわに部屋の扉が開けられた。現れたのは、かつては敵軍より降った捕虜であり、現在は文若の部下であり妻である花であった。けれども、さすがに天真爛漫な彼女といえども夫婦の寝室に見知らぬ犬がいるとは思わないだろう。

「えっ、子犬……!?」

 花は驚愕に目を見開いたが、次の瞬間には柔らかな微笑みを浮かべていた。

「……ワンちゃん、こんなところでどうしたの? どこかから迷い込んできちゃったのかな」

 さすがは花である。素直で心優しく順応力は抜群に高い。おおらかな彼女は夫婦の寝室に突如として出現した犬を追い払うでもなく、ただひとり部屋の窓へと向かって行く。そしておもむろに施錠を確認すると、小さく頷いた。

「……やっぱり鍵が開いていました。かけたから、よしっと」

 犬の文若は黙したまま自分の妻を見上げる。しかし次の瞬間、文若は我が耳を疑った。

「じゃあワンちゃん、私と一緒に行こうか。今日は私も文若さんもお仕事だから、ワンちゃんをひとりでここに置いておけないの」

「ワンッ……!?」

(文若さん、だと……!? ここには人の私もいるのか……!?)

 文若はただ一匹恐慌に陥る。あまりの衝撃に細い目を限界まで見開いて固まってしまった。

 けれど、花はそんな文若を目にしても動じなかった。一匹で見知らぬ場所に迷い込んでしまい困っている気の毒な犬とでも思っているのか、花は犬の文若に優しい笑みを向けると、おもむろにしゃがみこんだ。

「ちょっとだけ、抱っこさせてね」

 そう声を掛けて、優しく抱き上げる。

 花に抱きかかえられるなど初めてだ。人であればその体格差から天地がひっくり返っても不可能なその体験に、文若は新鮮な驚きを覚える。

 花の腕の中は温かく、彼女のささやかな胸の膨らみが全身に押しつけられて、文若はひととき男としての幸福に浸った。

(っ、やはり柔らかいものだな……)

 犬となった今でも、人間の男としての本能は幸か不幸かまだ生きているらしい。さすがに雄犬としての発情を迎えてしまうことはなかったが、文若は己の浅ましさに苦笑しつつも、花の腕の中で黙考する。

(どういうことだ……。皆目わからん……。理解が全く追いつかんな……)

 すると、彼をさらに混乱のるつぼに突き落とす事態が起こった。

「――おい、何をしている。花。寝室の戸締りの確認になぜここまで時間がかかるのだ。今日は早く出たいと伝えていただろう」

 頭痛がするような小言とともに姿を現したのは、かつて人だったときの己と瓜二つの存在だった。

「文若さん!」

 花は驚いた様子で声を上げるが、花の中の文若も驚きに言葉を失っていた。

(私だ、私でしかない……。一体どういうことだ……?)



 しかし、人の文若もまた花の腕の中の存在に大いに面食らっていた。だいぶ困惑したような、戸惑った様子で口を開く。

「なんだその子犬は……。花、その腕の中の犬はどうした……。我々の屋敷にそんなものはいなかったはずだが」

「文若さん! すみません、私もよくわからないんです……。寝室に行ったらこの子がいて……。あ、戸締りは確認しました。部屋の窓の鍵だけ開いていたのでかけておきました」

 花は犬の文若を抱えたまま、人の文若に事情を説明した。人の文若は花の話を聞き終えて小さく頷くと。

「そうか……。手間をかけたな。しかしわからんな。こいつは一体どこから……。玄関から侵入したとも思えんし、寝室の窓を開けて入って己の力で閉めたのか……?」

「不思議ですね……」

「ああ、不思議だ。しかし、現実にこの場にいたということは、どこかから器用に入り込んだのだろうな。……だが花、今は時間がない。議論はあとにして早く行くぞ」

「はい」

「そいつも連れてこい。無人の屋敷に置いておくわけにはいかん。本来、職場に愛玩動物を持ち込むなど不届き千万だが、今日ばかりは仕方がない」

「わかりました」

「いい返事だ。では行くぞ」

 そのまま犬の文若は花に連れられて二人の職場、銅雀台の丞相府へと向かったのだった。



***



 まるで今にも羽ばたかんとする鳳凰のような威容を誇る宮城の、この部屋は人の文若の執務室であった。

 この場で犬の文若は不思議な気持ちで周囲の人々の働きぶりを眺めていた。小さな犬の姿だから目に映るものすべてが大きく見えるのは相変わらずだ。

(やはり、ずいぶん新鮮だな)

 人の己と花はこの銅雀台においても二人で助け合い、つつがなく政務をこなしていた。

 当初は文字の読み書きすらできずに小言を食らってばかりの花であったが、現在は人の己の『そばにおいても邪魔にならない』良き部下として、きびきびと働いていた。

「……文若さん、すみません。こちらの書簡は急ぎのようなので、すぐに目を通していただけませんか」

「ああ、わかった。そこに置いてくれ。すぐに読む」

 人の己からの指示を必要とせず自分の判断でてきぱきと動く花に、犬の文若は満足げに頷く。

(成長したな。花)

 そして、花が見つけた急ぎの書簡に目を通しながらも、侍女を呼びつけて、二人分の茶の支度を命じる人の己に面映ゆい気持ちになる。

 思えば、自分がこのように誰かをいたわろうとするなど、きっと初めてのことだ。けれどそれも、相手が花だからなのだろう。

 彼女と一緒に働いている人の己は、心なしかどこか穏やかだ。持病の癇癪はなりを潜め、誰かに対して苛立ちを露にすることもない。その口から出る言葉も辛辣な小言ではなく、わかりやすく具体的な指示だった。

 人の己が落ち着きを失わないためか、周囲の部下たちも心穏やかに仕事ができているようで、部屋の片隅に積み上げられていた未処理の書簡の山は、順調にその数を減らしつつあった。

 そして、二人分の茶が侍女の手により用意されたことをきっかけに、人の文若と花は休憩に入った。



「……しかし、どうしましょうか。ワンちゃんは可愛いんですが、留守が多いので我が家では飼えない気がします」

「そうだな。かといっていつまでもここに置いておくわけにもいかん」

 湯呑を手に神妙な顔をする花に人の文若もまた同意する。

 ここというのはもちろん銅雀台の文若の執務室である。本日ばかりは仕方なくこの場に犬の文若を留め置いていたが、毎日犬を連れて出退勤もないだろう。人の文若は小さく息を吐くと。

「だからといって、捨ててしまうのも寝覚めが悪い。早いうちに、なんとかこいつの居場所を見つけてやらねば……」

「そうですね……」

 花もまた心配げに犬の文若に視線を送る。

(仕方のないこととはいえ、私の存在が完全に職務の妨げになっているな)

 かろうじて邪魔とは口にされていないものの、明らかにそういった扱いをされている。犬の文若は若干の落ち込みを覚えながらも、ただ黙って人の己と花を見つめた。

 しかし、心細くなってしまった文若は気がつくと「クゥーン」と寂しげな鳴き声を上げていた。

(はっ! わ、私としたことが……!)

 こらえたつもりが、感情を態度に出してしまっていた。

 自分にとっては、誰にも必要とされないのが最も悲しい。己の存在が大切な人たちの仕事の邪魔になるなど、最も辛いことだった。それこそ、自分の存在を消してしまいたくなるほどに。

 すると、犬の文若が気の毒になったのか、花が慌ててこちらに駆け寄ってきた。

「……ごめんね、ワンちゃん! ワンちゃんは大事な子だよ。だから、そんな寂しそうにしないで」

 泣き出しそうな顔でそう口にすると、花は犬の文若を抱え上げ、ぎゅっと抱きしめた。

 本日二度目の花の胸の膨らみの感触に、犬の文若が人の男としての喜びをうっかり噛みしめてしまった、そのとき。執務室の扉が唐突に開けられた。

「――文若、いるかぁ〜?」

 やってきたのは、この銅雀台の主であり文若の上長でもある曹孟徳その人であった。

「丞相! 扉を開ける前に声を掛けてくださいと何度お伝えすれば……!」

「孟徳さん、お疲れ様です」

「うん、ありがとう。花ちゃんもお疲れ様」

 人の文若の小言を無視し、花とさらりと挨拶を交わしてから。呼ばれもしないのにこの場に現れた孟徳はさっそく、花の腕の中の犬の文若を見つけて楽しげに笑う。

「おっ、まさか本当に『いる』とはな」

 口の中でそうつぶやくやいなや。孟徳は人の文若を振り返ると、わざとらしいほど大袈裟な笑みを浮かべた。

「驚いたぞ。まさかお前が犬を拾うとはな」

「拾ったわけではありません。この者が我々の屋敷に居ついただけです。しかし、屋敷を空けがちな我々では飼うこともできませんし、いつまでも私の執務室に置いておくわけにも……」

「犬を抱っこしてる花ちゃんかわいいなあ」

「っ、丞相! 話を聞いているのですか」

 花がかわいいのは同意するが。先ほどまで穏やかだった人の文若が、孟徳が現れたとたんに苛々としはじめ、犬の文若もまた花の腕の中で眉間の皺を増やした。

 雄犬としての本能なのか、こちらにというか主に花にまとわりつく孟徳に、吠えかかりたい衝動をこらえながらも、犬の文若は黙って人の文若と孟徳の話に耳を澄ます。

 孟徳は人の文若に対してあからさまに「ああ鬱陶しいな」という顔をしながらも、丞相らしい威厳をのぞかせながら胸を張った。

「……聞いている。犬をどうするのか困っているんだろう? 安心しろ、俺にいい考えがある」

『安心できない……!!』

 この場にいる全員が心の内で絶叫するものの、丞相である孟徳に対して話も聞かずに「安心できません!」などと言い放てる人間などこの場にいない。

 犬文若と荀文若と花は不安な面持ちで孟徳の様子を伺ったが、孟徳はしれっと言い放った。

「簡単なことだ。警備犬としてこの丞相府で飼えばいい」

「警備犬、ですか……?」

 荀文若が訝しげに反芻するが、孟徳の意思は揺らがない。

「そうだ。それならいつでも好きなときに会いに行けるし、なかなかいいだろ? ちょうど俺も欲しいと思ってたんだよ。新しい軍用犬が」

 そう口にして、孟徳は改めて花の腕の中の犬文若を見おろしたが、その瞳にはまるで兄のような温かな光があった。

 この目には覚えがある。かつて若き日の文若が彼に仕官を誓ったときも、孟徳はこの瞳をしていた。思えば孟徳はあの頃から変わらない。昔も今も唯一無二の存在だ。

「世話は新入りの武人にでもやらせればいい。馬の世話のついでにな。こいつは賢そうだしな。充分問題なく働けるんじゃないか?」

 孟徳は花の腕の中の犬文若の頭をその大きな手でわしゃわしゃと撫でる。仕事以外での孟徳は信用できないが、仕事の面では信じられる。そんな彼に太鼓判を押されて犬の文若は大いに励まされた。

「よし、そうと決まれば元譲のところに預けよう。しばらく訓練してものになったら、お前は晴れてこの丞相府の警備犬だ。頑張れよ」

 孟徳の笑顔はどこまでも明るい。とはいえ丞相でもある彼は本当はすごく厳しいと知っている。警備犬の話だって「訓練してモノになれば」という条件つきだ。

 しかし、その方が逆に燃えるというものだ。花の腕に抱かれながらも、犬文若は気合を入れ直した。

 誰かのために働く犬。それはきっと愛玩犬として過ごすよりずっと自分向きだ。その上、国のためにこの丞相府で働けるならこの上のない幸せだった。



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