◆恋〇記NL小説◆

□【現パロ孟花】孟徳さんが過労で倒れる話
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「……くそっ、まいったな」

 思わず悪態をついてしまう。しかし、広い室内は無人で誰の返事も帰ってこない。定宿にしている高級ホテルのある一室で、孟徳は二人掛けのソファーに腰を下ろして眉間に手を当て唸っていた。

 会議に出席し終えたばかりの夕刻。外は雨が降っているようで、窓外の都心の夜景はスモークがかかったようで幻想的だ。

 このあとは少しの休憩を挟んで夕食会に参加して、同業他社のお偉方に挨拶するという予定だったが、孟徳はかつてない窮地に陥っていた。

「休めないんだよな……。今日も明日も、ずっと……」

 困ったような心細い呟きは、おおよそいつもの彼らしくない。かろうじてソファーからずり落ちずに座った姿勢を保ってはいるものの、孟徳の額からは滝のような汗が吹き出し、襟元の色が変わるほどにワイシャツを濡らしていた。眉間に当てている手も先ほどからずっと小刻みに震えている。

 四十度を超える高熱と身体の震え、激しい全身の痛みと猛烈な倦怠感……。おそらくこれは過労とストレスを原因とした免疫力の低下でかかってしまう感染症だ。まさか自分がこの病気になるなんて、と孟徳は自嘲する。

 月並みだが「周りはなってても自分だけは大丈夫」だと楽観していたのだ。体力や気力にも自信があり、自分は無理のきくタイプなのだと。数日前からの微熱や多少の倦怠感もただの風邪だと思っていて、症状を抑えるための解熱鎮痛剤しか服用していなかった。

 そのうち治ると思っていたがなかなか治らず、それどころか次第に悪化して、そしてついに症状はいよいよ堪えがたいレベルで悪くなってきた。これを容体の急変というのかは知らないけれど。

「っ、くそ。熱い……」

 もう無理だ。孟徳はソファーからずり落ち床に倒れ込む。本当は横になるならベッドまで行きたかったが、動けなかった。自分では起き上がることも不可能で、できることといえば吹き出す汗はそのままに、こうして横になって激痛に耐えることだけだった。そして。

「っ、寒い……」

 高熱による猛烈な暑さが去ったと思った次の瞬間、孟徳を激しい寒さが襲う。Tシャツとショートパンツ姿で、ブリザード吹き荒れる酷寒の大地に放り込まれたのかと錯覚するほどの、激烈な寒さである。ここは高級ホテルのスイートルームで、空調は今日も完璧に行き届いているはずなのに。

 この寒さのお陰で先ほどまでの無限に噴き出る滝のような汗は止まったが、今度は身体の芯から氷づけにされるかのような悪夢のごとき寒さに、孟徳の全身がガタガタ震えだす。

 自分ではそんなことはしたくないのに、激しい震えで歯がガチガチと鳴り続ける。歯の根も合わないほどの震えというのはこういうことを言うのだと、孟徳は初めて知った。

 冬物のスーツの下には愛用のカシミヤのカーディガンを着込んで、それなりに温かな格好をしているのに、このありさまだ。

(全身が……。痛い……。くそ……)

 いよいよ身体の痛みは激しくなり、意識が朦朧とし始める。生理的な涙で瞳が潤んでいるせいか、周囲の風景はぼんやりとしか見えない。このままではまずい。本当に気絶しそうだ。

 孟徳は決死の思いでポケットからスマホを取り出して、腹心の部下である夏侯元譲に電話を入れて、瞳を閉じた。ホテルに滞在するときの常として近くの部屋に控えているはずだから、彼はきっとすぐに来る。

「――孟徳! 開けるぞ! 大丈夫か!?」

 数分後、野太い叫び声とともにドアが開き元譲が駆け込んできた。そして彼の後ろには、心配そうな顔をした女性のホテルスタッフが二名いた。

 孟徳のオートロックの部屋の鍵を用意してくれたのは彼女たちだったのだろうが、他人に弱った姿を見せたくなかった孟徳は「元譲以外は来るな!」と制止したかったもののそれもできずに、ひとり床に倒れたまま苦しみ続ける。

 敗血症寸前の、身体の芯から巻き起こる焼かれるような激しい熱さと、比喩でなく本当に身体が凍りつくのではないかと錯覚するほどの猛烈な寒気と、それらに交互に襲われながらも、孟徳は懸命に自らの状況を元譲に伝えようとした。

「……げん ……じょ ……ね、つ ……が」

 しかし。それを遮るかのようにホテルスタッフの鋭い声が響いた。

「――こちらでは対応できません! 救急車を呼びます、構いませんね!?」

「……っ、わかった!」

 元譲は呻くように返事をする。大事にはしたくなかったが、こうなってしまってはどうしようもない。すでに騒ぎも大きくなっているようで、部屋の外がざわついてる気配が伝わってくる。

 無用な人目を避けるためにエグゼクティブフロアを選んだものの、このフロアにも他の宿泊客はいる。先ほどの会議で顔を合わせたお歴々もそうだろう。一般客は少なくとも完全な無人ではない。

 床で呻いている孟徳のすぐ隣に、スマホで一一九番通報したホテルスタッフが、元譲を押しのけるようにして割り込んでくる。

「――救急です! インペリアルホテル新館、エグゼクティブフロア上階の角部屋のお客様! 三十代の男性です。高熱で倒れられて……! はい! 新館の通用口にお越しください。正面玄関ではなく通用口にお願いします!」

 さすが高級ホテルの現場スタッフ。無駄のない的確な受け答えだ。彼女は孟徳に向き直ると励ますような笑みを浮かべて。

「救急車はあと十五分で来ます。頑張ってください。――着衣を緩めて毛布とバスタオルですね! かしこまりました」

 後半は通話相手からの指示の復唱だ。スタッフの言葉を耳にした元譲は即座に対応する。

「孟徳! すまんが服を緩めるぞ」

 ネクタイがぐっと緩められ、ワイシャツのボタンがブチブチと外される。一一九番通報をしているスタッフとは別の若いホテルスタッフが孟徳の腹部から下に毛布をかけ、フェイスタオルでこめかみや首筋の汗をぬぐい始めた。

 通報をしたスタッフはスマホを耳に当てたまま元譲に声を掛ける。

「お客様の介抱は私共が致します。おそらくこのまま入院となりますので、保険証と貴重品のご用意をお願いいたします。お荷物も可能な範囲でおまとめください」

「――わかった!」

 元譲は慌ただしく部屋を見回って孟徳の私物をかき集める。

 通報をしたベテランらしきホテルスタッフはスマホを耳に当てたまま、孟徳の汗を拭いている若いスタッフに、フロント宛に内線電話をかけるように指示をしている。

 その少し向こうでは、元譲に続いて孟徳の部屋に駆けつけたと思しき元譲の部下たちが、焦った様子でどこかに電話をかけている。おそらくは会社に連絡をつけているのだろう。

 孟徳は気絶しそうな激しい痛みと高熱の中、ガタガタと震えながら、これまで休みらしい休みなど一切取らず、花と二人で過ごす時間を少しでも増やしたくて無茶ばかりし続けていた、己の無謀な働き方を悔やんだのだった。



***



 救急車はすぐに来た。搬送先の病院もすぐに決まり、孟徳はストレッチャーに乗せられて運ばれていた。

 救急車に乗れるのは患者本人と付き添い一名の計二名だけだ。それ以外の人間は自力で搬送先の病院に向かわなくてはならない。自然な成り行きで付き添いは元譲になり、元譲の部下たちは社に戻るものと自力で孟徳の搬送先に向かうものと二手に別れた。

 人目を避けるために正面玄関ではなく通用口を利用しているものの。救急車のサイレンは爆音といっていいほどにうるさく、ストレッチャーに乗せられて運ばれる孟徳を守るようにして取り囲んでいる、救急隊やホテルスタッフ、そして元譲をはじめとした孟徳の部下たちのせいで、目立ってしまっていた。

 物々しい異様な雰囲気に周囲は騒然としており、居合わせた一般客たちに先ほどからずっと視線を送られている。一体何が起きたのか、運ばれている人は誰なのか、囁き合う人々も多かった。

 そして、救急隊の面々と孟徳と元譲を乗せ終えて。救急車はついに発進した。



 走行中の車内では、この場でできる限りの処置が行われる。ストレッチャーで横になっている孟徳は、熱を測られ点滴の針が刺され即座に輸液が開始された。まずは水分を大量に投与して脱水症状を改善するのだ。

 救急車の乗り心地は良くはない。寝かされているストレッチャーは固く、運転は荒い。孟徳たちを乗せた救急車はサイレンを鳴らしながら猛スピードで、文字通り飛ぶように雨の夜のアスファルトの上を走り抜けていく。

 片側二車線の交通量の多い道路だったが、遠くから聞こえてくるサイレンの大音量と「道を空けてください」という放送に、他の車たち、つまり一般車両はサーッと波が引くように避けてゆく。道路の隅に寄りながら走行速度を極限にまで引き下げて、救急車が走り抜けるための道をあけてくれる。その真ん中を、中央線を踏み越えながら。救急車は猛スピードで駆けてゆく。

 緊急車両の一般道における緊急走行時の最高速度は時速八十キロと道路交通法で定められている。普段自分たちを乗せた車がこの道をこんな速さで走ることはありえないから、孟徳はまるで公道でレースをしているような不思議な気持ちになった。少し面白くなってしまう。一刻を争う状況で面白がっている場合ではないが。

 そうこうしているうちに、搬送先の病院の近くに着いたのか、救急車がおもむろに減速し始めた。

「孟徳、ついたぞ。――大学病院だ。文若たちもすぐに来る。あと少しだ」

 元譲から改めて病院の名前が告げられて励まされる。有名な大病院だ。このあたりで何かあれば大体ここに運ばれるのだろう。

 先ほどから続けられている輸液のおかげか、身体は少しずつ楽になっていた。大学病院の救命救急センター至近の通用門を滑るように通り抜け、そのまま救急車はセンターの建物を目指して進んでいく。

 ようやく安堵する孟徳だったが。しかし、こんなことになってしまって、そのあとのことを思うと憂鬱になった。



 救急車で来院すると最優先で対応してもらえる。法律でそう決まっているのだ。

 救急外来の初療室で慌しく診察と処置を済ませて、今孟徳がいるのは一般病棟の個室だった。ストレッチャーではなく今度は病室のベッドで引き続き横になっている。

 抗生剤とブドウ糖の点滴も続けられているが、気絶しそうな全身の痛みはやはり治まらない。

 付き添って一緒に病院に来た元譲は、今ここにはいない。なにかの手続きがあるとかで外に行っていて、今この場にいるのは孟徳と孟徳の処置をしていた看護師の二人だけだった。看護師は半死半生の孟徳にいたわるような笑みを向けると。

「……点滴は今夜は外せませんが、だいぶ楽になりますよ」

「……」

 今夜は外せない、その言葉に孟徳は暗澹たる気持ちになる。今日も予定が詰まっている。本当ならすぐにでも戻って仕事をしなければならない身分だけれど。

(……できるわけないよなあ)

 高熱でつらくて看護師の声掛けにも返事ができない。今の自分の時間感覚が当てになるかはわからないけど、倒れて運ばれてからまだ二時間もたっていないはずだ。

 するとバタバタという誰かが走ってくるような気配がして、ノックもなしに病室の引き戸が開けられる。

「――常務!」

「お静かにしてください、点滴を打ちながら休まれています」

 息を切らして駆けつけたのは腹心の部下の文若だった。しかし彼は早速この場にいた看護師に注意されていた。

 常日頃は彼の方が「扉を開けるときは声を掛けてからにしてください」などと口うるさいのに、孟徳が倒れたと聞くやこの慌てようだ。

「――常務の容体はどうなっている!? 仕事に復帰できるのはいつ頃だ!? 今夜も明日も予定が詰まっているのだ!!」

 文若は早速その場にいた看護師に居丈高に詰め寄る。

(開口一番、この台詞かよ)

 孟徳は呆れるが、喋ることもままならない今は黙って横になっているだけだ。ベテランの看護師は医師から聞いたらしきことを説明していた。

「完治には二週間程度かかります。このまましばらく入院になります」

「入院? このまま? 二週間も入院になるのか?」

 半死半生の状態で搬送され今もなお点滴に繋がれている患者を前に心配する言葉は一切なく、復帰時期ばかりを高圧的な態度でしつこく尋ねてくる文若に不快そうな顔をするものの。それでも孟徳を担当しているらしき看護師は淡々と返事をする。

 ベテランの彼女もまたなかなかの胆力がありそうだ。半ギレの文若相手に一歩も引いてない。

「……無理をすれば早く退院することもできますが、身体に負担はかかります。自宅での絶対安静と服薬が条件です」

 文若は相変わらず渋い顔だ。眉間に皺を寄せて額に手を当てる。

「そうか……」

「お仕事をされている方は皆さん『休めない』と仰いますが、休んでいただかないことには治りませんので」

 やや棘のあるきっぱりとした看護師の口調。
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