◆恋〇記NL小説◆

□【現パロ孟花】スイートオスマンサス〜桂花の寝台〜
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 漆黒の空に美しい星々が瞬いている、ある夏の夜。都市高速を黒塗りの高級車が流れるように走っていた。運転席でハンドルを握るのは荀文若。そして後部座席でゆったりと足を組んで座っていたのは、彼の上司でもある曹孟徳だ。

 この国で暮らす大人で知らない者はいない大手企業の重役でありながらも、腹心の部下の前では自由闊達な孟徳は、まるで鼻歌でも歌いだしそうな機嫌の良さだった。

「いや〜金曜のうちに帰国できてよかったよ。接待を断って頑張って仕事を片づけた甲斐があった」

 スマホの画面をスワイプしながら、孟徳は今回の数週間に渡る海外出張を振り返る。孟徳が日本に戻ってきたのはつい先ほどだった。夜の便でなんとか日本が金曜のうちに辿り着いた。文若はそんな彼を空港まで迎えに行き、今はその帰り道。

「……おっ、早速花ちゃんから返信だ。『わかりました。お待ちしてます』だってさ〜。文若。わかってると思うが、行き先は彼女のマンションだからな」

「――常務」

「トランクのキャリーバッグは俺を降ろした後で本邸にでも運んでおいてくれ。ああそうだ、連休中は仕事の取次はしてくれるなよ。俺は花ちゃんと楽しく過ごすのに忙し……」

「――……常務!」

「……ああ、さっきからうるさいな。なんだ、何か文句でもあるのか?」

「言いたいことならば山ほどございますが、あえてひとつだけ申し上げます。くれぐれも週刊誌の記者にはお気をつけください」

「週刊誌の記者? まだそんなのがいるのか」

「ええ。常務の本邸付近と本社のエントランス周辺で、不審な車両を見たとの報告が上がっております。ナンバーも控えておりますが、おそらくは週刊文芸でしょう」

「いい加減しつこい奴らだな。あの買収ならもう三か月も前に片付いたっていうのに」

「先方の例の件のせいもあるのかと。目に余るようならなんとかさせましょう。……力技になりますが」

 生真面目な部下からの小言と報連相に孟徳は不意に頭痛を覚える。琥珀色の瞳を伏せるとこめかみに手をやった。

 文若の口にした例の件というのは。それは孟徳自身も深く関わった数か月前の大型買収の際に、先方の利害関係者のうちひとりが自殺を図り、今もなお意識不明の重体となっている問題だった。

 孟徳たちが今更、赤の他人の生死をどうこう思うはずもないが、ナンバーワン週刊誌は国を代表する大企業の醜聞を嗅ぎまわっている。企業イメージを守る必要も一応はあり、彼らに騒がれるのは煩わしかった。

 メジャーなマスコミには政治家を使って圧力をかけ、表立った報道はさせなかったものの、フリーランスの記者も抱える週刊誌までは抑え込めなかったらしい。孟徳の瞳に酷薄な光が宿る。

「……たかだか人ひとりの命程度で面倒なことこのうえないな。あそこの版元は文英春台か。これ以上続くようなら広告宣伝費を引き上げるとでも伝えておけ」

「かしこまりました」

 文若は眉ひとつ動かさず、ハンドルを握ったまま、ただ前だけを見据えている。孟徳の返答を予め予期していたようだ。

 孟徳たちを乗せた車は、夜の高速道路を滑るように走り抜けていく。道路わきの連続照明に明かりの点った高層ビル群が、次々と後方に流れ去ってゆく。

 車窓から見える都会の夜景。見ようによっては美しいのかもしれないが、今の孟徳にとっては景色など些末なことだった。

 そんなことよりも早く彼女――花に逢いたい。仕事の兼ね合いで本邸も別宅も抱えている身ではあるけど、自分にとっては彼女の隣だけが真の意味での帰る場所だから。

 孟徳は心の内で愛しい姿を反芻する。

『――おかえりなさい、孟徳さん』

 いつも優しく迎えてくれる。そう、あの笑顔のためだけに。今夜も疲れをおして、わざわざ国際空港から彼女のもとに直行している。

 早く彼女の柔らかな素肌に溺れて、この数週間のストレスを浄化されたい。うんざりするようなしがらみにまみれた仕事のことなんて早く忘れて。

 しかし、思いがけず孟徳の仕事用のスマホが震える。画面には夏候元譲と表示されていた。今は金曜の二十時過ぎ。こんな時間に元譲から仕事用スマホに電話だなんて、どうせろくでもないことに決まっている。孟徳は再度こめかみに手をやり、盛大なため息をつく。

「はぁ……」

 スマホの振動音はもちろん運転手の耳にまで届いている。何もしようとしない孟徳を見かねたのか、ややあってバックミラー越しに文若からちらりと視線が送られる。

「……常務。お出にならないのですか」

「…………」

 孟徳は無言だ。よほど仕事用のスマホが震えているのを認めたくないらしい。文若は小さく息を吐くと。再び彼を促した。ただ一人の愛しい女性の前ではことさらに、甘く優しいだけの男でいたがる自らの上司を。

「……もうすぐ下道に入ります。目的地までもう間もなくです。早めのご対応がよろしいかと」

「ああ、せっかくの連休前の金曜の夜だというのに。なんだって俺の社用スマホは今も元気に震えているんだろうなぁ……」

 文若に再度ミラー越しに睨まれて、ようやく孟徳はスマホの画面に触れた。

「――俺だ。どうした、元譲」

『孟徳、こんな時間にすまん! 実はだな……』

 先ほどまではあれほど嫌がっていたのに。元譲からの電話に対応する孟徳はいたって真面目だ。瞳から感情の光を消し、淡々とした様子で役員としての職責を全うしている。

 文若は口の端をわずかに上げるとハンドルを切った。ETCレーンを通過し一般道に降りる。いつもの週末の夜。多少のアクシデントはありつつも、これが彼らの日常だった。



***



「花ちゃん〜! たっだいま〜! 二週間ぶりだね! 会いたかったよ〜!」

 マンションの玄関ドアを開け、部屋の中に招き入れるやいなやの熱い抱擁。しかしこれも想定内のことだ。花は苦笑しつつも受け入れる。

「おかえりなさい、孟徳さん。……あの、少し痛いです」

「ああ、ごめんごめん。君に会えて嬉しくってさ。つい、ね」

 甘く垂れた瞳をさらに垂れさせて、孟徳は微笑む。花といるときの彼はすこぶる上機嫌だ。仕事中は決して見せない子供のような笑顔で、声のトーンや喋り方までがらりと変わる。そう、彼女の前では甘く優しいだけの男でいたいから。

 しかし、久しぶりに逢った花は浮かない様子で、孟徳は心配そうに眉を下げる。

「……君は? 久し振りに俺に会えて嬉しくないの?」

「嬉しいですよ? でも今は孟徳さん、週刊誌の記者に見張られてるって文若さんが……」

「え?」

「だから、私のところなんかに来ていいのかなって心配で……」

 彼女には珍しい鬱々とした雰囲気。本心から孟徳を心配しているのだろう、花は随分と不安そうな様子だ。孟徳が誰かから責められることを嫌がる花は、いつも過剰なほどに彼の身辺を気遣ってくれる。

 しかし、二人きりの楽しい時間に水をさされたくなかった孟徳は、焦った様子で言い訳をした。

「いや、別に大したことじゃないって……。文若の奴はいちいち大げさなんだよな。週刊誌はこの前の大型買収の件だろうし、あれは問題なく終わってるから、君が不安になることはないよ。ごめんね? 変な心配かけて」

 しかし、この言い訳は。嘘はついていないが正確でもなかった。花にはやはり聞かせたくなくて、孟徳は自殺者の件は隠していたのだ。ここしばらくの間、週刊誌にマークされているのも主にそのせいだったが、花には別の理由を伝えてある。

「今日も空港から君の家まで車で直接来たし、誰にもつけられてなかったから、大丈夫」

 人差し指を口元にやるお得意のポーズにウインク。もし文若がこの場にいれば、孟徳の白々しい振る舞いに眉間の皺を深くしただろうが。ここには花と孟徳の二人しかいないため、誰も突っ込まない。

 孟徳の不自然なほどの明るさに、逆に不安を増したのか花は改めて孟徳を見上げてくる。

「……本当ですか?」

「本当だよ。君に嘘はつかないって約束してるのに、花ちゃんは心配性だなあ」

「そうでしょうか……」

「第一、俺はタレントでもない一般人だし。胸に名刺つけて歩いてるわけじゃないから大丈夫」

「一般人、ですか……? 孟徳さんが……?」

 日本では知らない人のいない大手企業の役員を務めるエリート。経済系のメディアに名前が出るのも頻繁な財界の若き著名人が、ただの一般人とは思えずに、花は首を傾げるが。

「……でも、女子アナの人が社長さんと結婚するときも一般男性って言うし」

 そういうことなのかな、と。しばし考えこんだ後、思いついたようにつぶやいた花だが、それはあいにく孟徳の耳まで届いていた。

「花ちゃん、聞こえてるんだけど……」

 さすがに聞き捨てならなかったのか。孟徳はもの言いたげな様子で花を見つめる。

「っ! す、すみません……」

 孟徳のただならぬ雰囲気に、花はびくりと肩を跳ねさせた。やっぱり、失言だったのだろうか。申し訳なさそうに縮こまる花に、孟徳は大げさにため息をつくと。

「何度も言ってるけど、俺は君以外の女性と結婚する予定はないし、たいして仕事もせず夜の街で遊びまわってる連中なんかとは、一緒にされたくないんだけど」

 もっともらしい孟徳の抗議に、しかし花は不審に思う。

「……でも、以前文若さんにお聞きしましたよ。孟徳さんの大学時代の話」

「え?」

「堂々とお酒が飲めるようになってからは繁華街に入り浸りで、授業も出ずに色んな女の子と……」

「ちょっ……! 花ちゃんっ……!?」

 らしくもなく、孟徳はあからさまに狼狽える。彼がこんな無防備な姿を晒すのも花の前だけなのだが、あいにく当の花だけはそれに気づいていない。

『くそっ文若……! あとで覚えてろよ……!』

 孟徳が心中でそう歯噛みしたかは定かではないが。

 ちなみに孟徳と文若は大学の先輩後輩で、ゆえに孟徳の学生時代の黒歴史の出所はだいたい彼だ。隙あらばサボろうとする孟徳に真面目に仕事をさせたいのか、文若はなにかにつけてあることないこと花に吹き込んでいる。とはいえその九割は正しいのだが。

「……あのね、花ちゃん」

 しかし、孟徳はめげなかった。目の閉じた辛気臭い部下に妨害されようとも、たとえ自業自得の不始末であろうとも、愛しい恋人に嫌われたくない。

 彼女に『嫌い』なんて言われた日には、自分は正気を保てる自信がないのだ。こう見えて繊細な男心。大人げなく拗ねて未練がましく八つ当たりをする末路しか見えなかった。当たる相手は元譲だとしても。

 孟徳はいっそ白々しいほどに誠実を装って取り繕う。

「何度も言ってるだろ? そんなのただの若気の至りだよ。確かに過去は消せないけど、今と未来は全部君のものだって言って……」

 しかし、花は妙に不満げな顔で。

「この前のインペリアルホテルのレセプションパーティーで美女を連れてたって、ネットニュースに出てましたけど……」

 妙に事情通な彼女に孟徳の笑みがひきつる。

「……君もなかなかに辛辣だよね。今のはわかってて言ってるでしょ。彼女は役員付きの秘書だよ。彼女の世話になっているのは俺だけじゃない。大臣も出席する公的なパーティーに、まだ学生の君を連れては行けないからね。俺はよくても、さすがに周囲が許さない」

 とはいえ、その反論の内容はいたって真っ当だった。孟徳は淡々と続ける。

「君だってそんなところに連れていかれても困るはずだ」

「……はい、すみません」

「まあでも、もう何年か経って君がもっと大人になったら、俺の奥さんとしてパーティーに同伴して欲しいと思ってるけどね」

「……うっ」

「だから、ちゃんと勉強頑張ってね」

「は、はい……」

 ちょっとした妬心といたずら心で藪をつついてみたら、すごいお返しをされてしまった気がする。鉄壁の笑顔の孟徳に、花は心の内で後悔するが。それはさておき。

「政治家の人も来るパーティーって何をするのかな……」

 孟徳とは違って真の意味での一般人の花には、想像もつかない世界だ。花の前ではふざけていてもこの国の経済を担う人。やっぱりすごい人なんだな。花は孟徳への尊敬の念を新たにするが。しかし、そんな彼は疲労のにじんだため息をつくと。

「……そんなことより。せっかく久しぶりに逢えたんだから、もっと楽しい話をしよう。免税店でお土産買ってきたんだ。君に似合いそうな香水」

 孟徳はおもむろに部屋の片隅に置いていたカバンの方に向かうと、何かを取り出して戻ってきた。ブランドロゴが箔押しされた白い小さな紙袋だ。花も知ってるハイブランド。孟徳は無雑作に開封すると中身を花に差し出した。

「――はい、どうぞ」

 免税店でよくある小さな香水セットだ。きれいなデザインボックスに、香水が四本ほどセットされているお決まりのお土産。

「そんな、申し訳ないです」

「遠慮しないでよ。俺があげたくて買ってきたんだから受け取って」

 固辞しようとする花に、絶妙な強引さで孟徳はお土産を押しつけてしまう。花は戸惑いながらも、横長のボックスと孟徳を交互に見つめるが、何も言えないまま。しかし、不意に孟徳は何かを思い出したように口を開いた。
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