【short/他】
□一夜を共にした人は会社の上司でした
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松川さんに連れてきてもったのは、カウンターが数席とテーブル席が三席ある小さなバーのような雰囲気のお店だった。お値段も思ったよりも高くなかった。
「ここね、俺のお気に入りの店なんだ。あ、何にする?ビール?」
『いえ、ビールはあまり得意じゃなくて。ジュースで』
「呑まないの?」
『松川さんが運転で呑めないのに、私ひとりで呑むのはちょっと…』
「そんなの全然気にしなくていいのに。好きなの呑んで」
『…じゃあ、とりあえずこのチョコレートドリンクで。なんか美味しそう』
「オッケー」
店員さんを呼ぶと飲み物とおつまみをいくつか頼んだ。飲み物が来ない間、沈黙になっていて自分の手元を弄りながら早く飲み物が来ないかなと思っていた。
「昨日の事なんだけど」
『は、はい!』
いきなり昨日の話題に触れられて思わず声が裏返ってしまった。その声を聞いて松川さんはクスクスと笑う。それが思ったよりも恥ずかしくて、お店の照明が明るくなくて良かったなと思った。
「俺はね、△さんとの関係を一晩で終わりにするつもりは無いんだよね」
『それは…どういう意味でしょうか?』
「△さんは一晩の関係で終わりにしようと思ってるでしょ」
『…忘れようと思っています』
「忘れられるのは寂しいなぁ」
『…松川さんのような素敵な人の隣に、私は合わないと思うんです』
「素敵?俺が?なんでそう思うの?」
自覚してないのか…。なんて女殺しの無自覚な人なんだ。そう思った言葉は心に閉まっておいて私は話し始める。
『背も高くて部下にも優しいです。ミスしても怒るどころかフォローしてくれるし、私のような平社員の名前もちゃんと覚えてくれてるし。他の社員にも理想の上司だって人気なんですよ』
「それは知らなかったなー。俺さ、高校時代バレーボール部だったんだけど、キャプテンが女子に凄い人気だったから自分も人気あるとかそういうの分かんないんだよね」
いやいや…もしかして今までの行動も全て無自覚ってやつですか?そう思うと凄いな。
松川さんの過去に驚きを隠せないでいると、ちょうどよくおつまみと飲み物がやってきた。チョコレートドリンクは生クリームが乗っていて凄く美味しそうだった。
「じゃあ、ベタなのやろうかな」
『え?』
「二人の出会いに乾杯」
『あ、か、乾杯っ』
グラスの良い音が鳴った。ホントにベタなやつだけどそれすらも似合ってしまう。
「俺はさ、これからも△さんとこうして呑んだりメシ喰ったりしたいわけよ」
『昼休みに食堂で隣で食べたりしてるじゃないですか』
「仕事中じゃなくてプライベートでの話」
『私と呑んだって楽しくないですよ』
「楽しいよ」
『喋らないから会話にならないですし』
「今は喋ってんじゃん」
『これは松川さんが…っ』
あー言えばこう言う松川さんに反論しようとすると、松川さんの手がテーブルに乗せている私の手と重なった。思いがけない行動に言葉が詰まる。
「俺の言ってる意味わかる?」
『わ、わかりません…っ』
「ほんとに?分からない?」
『…っ』
重なっている手は指同士が絡まる。松川さんの行動に、自分でも分からないくらい動悸が激しくなっている。松川さんのような素敵な人が、何で平凡な私にこんな事をするのか分からなかった。単純にからかっているだけならもうこの辺で辞めてほしい。これ以上されると本気でどうにかなってしまいそうだった。本気になってしまった後で実は嘘でした、なんて言われたらショック立ち直れないかもしれない。
「俺は△さんとただの上司部下の関係じゃなくて、ちゃんとした男女の関係になりたい」
『…え、』
「俺と付き合って」
『…え?』
「うん」
『えぇー!?』
松川さんのいきなりな発言にお店中に私の声が響いた。驚いて金魚のように口をパクパクしている私を、松川さんはニコニコしながら見ていた。
『いやいやいや…』
「え、嫌なの?」
『いや、そうじゃなくって…え、付き合うって、私と?』
「そうだよ。後ろの見えない相手にでも話しかけてるとでも思ったの?」
『いや、思いませんけど…え、なんで?』
「これといった理由はないんだけど、強いて言うなら一目惚れかな。バーで泣いてる姿が健気で可愛かった」
『あ…、』
あの時か…。でもあの時の私って涙で顔ぐちゃぐちゃだったし、可愛かった要素なんてどこにも…って、え、え…、私、あの時、松川さんのところに自ら行って呑んだんだよね。それでそのまま二人で帰って一緒に朝を迎えたんだよね…っ。松川さんの家の洗面所で見た時に思ったけど私の顔メイクで凄かったんじゃ…。
『…松川さん。あの時の私の顔ってどんなでした?』
「え?あぁ、涙でぐちゃぐちゃだったかな」
あぁ、終わった…。今更だけど初対面の人にそんな顔見せてしまって…なんで松川さんはそんな私に一目惚れしたんだろう…。一目惚れする要素なんてある?
「で、返事はどうなの?」
モヤモヤしてると松川さんが口を開く。
『と、とりあえず、知り合ったばかりなので…、まずはお友達からでいいですか?』
「…お友達、ね」
松川さんは腑に落ちない表情を見せた。
この人に告白されたらおそらく大半の女性がYESと答えるだろう。だけど、見た目も性格も良い松川さんと出会って、いきなりお付き合いするほど自分に自信が持てなかった。
「まぁ、いいよ。好きにさせてみせるから」
そう言うと松川さんはニヤリと笑った。その表情に私はただ苦笑いをするしかなかった。
バーを出て家の前まで送ってもらった。まずはお友達からということで、無料通話アプリで連絡先を交換する。松川さんが私のバーコードを読み取ってトークを送ると、アプリ特有の効果音が鳴って新規追加の友達欄に松川さんの名前が表情された。
『…ハンバーグ?』
松川さんの待ち受けはハンバーグだった。何故に…。
「チーズインハンバーグ、好きなんだよ」
恥ずかしそうに顔を逸らした松川さんの耳は暗い車内でも分かるくらい少し赤かった。その姿がなんだか可愛くて、私はクスッと笑ってしまった。
『じゃあ、今度食べに行きましょうか』
「え?作ってくれないの?」
『え、あ、そ、それはいつか…』
「じゃあ楽しみにしてるね」
松川さんに手を重ねられる。大きくて骨ばった手にドキッと心臓の音が鳴った。顔が熱くなる前にドアを開けて車から降りた。
『お、送って頂いてありがとうございました』
「うん。また会社でね。おやすみ」
『おやすみなさい』
短いクラクションを鳴らして走り出した松川さんの車を小さくなるまで見送った。握られた手が未だに熱くて、その手を見つめながら溜め息をついた。
シャワーを済ますと充電してあるスマホの待ち受けにトーク画面が表示されていた。タップしてトークを開くと松川さんだった。
"今日は付き合ってくれてありがとう。良かったらまた食事に行こうね"
絵文字も何も無いシンプルな文章だったけど、わざわざ送ってくれて気遣いも出来る人なんだなと感心してしまった。
ご馳走になったのと送ってもらったお礼のトークを送ると直ぐに既読になって、キャラクターが親指を立てているスタンプと布団に入って寝ているスタンプが送られてきた。私もお布団に入ってるスタンプを送り返してスマホの画面を暗くした。
『………』
松川さんのあの言葉を思い出してベッドに横になりながら部屋の中をぐるりと見回す。
汚部屋とかではないけれど、細かいところを見ると所々散らかっていて、人を呼ぶには少し片付けが必要だった。
チーズインハンバーグのレシピも調べておかなきゃなと思いながら色んなことがあって疲れてしまって、布団に入るとすぐに睡魔が襲って眠りについた。
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