アンソロ作品

□ゆらめく、またたき
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真っ暗な部屋、出窓を大きく開け放ちルーンはそこに立っていた。

「ルーン、こんなところで何をしているの?」
 窓側に立っているルーンを小さく呼んだ。
 天文学者が窓際で外側を向いて行うことといえば一つしかない。それなのにあえてフィリエルは聞いた。
「星を観ていたに、決まっているじゃないか」
 衣が擦れたような音を立てながらフィリエルはそっとルーンの隣に立った。
「ウソ。星を観ているならばルーンは上を向くのでしょう。それに――」
 フィリエルはルーンの手にしている眼鏡を指差した。
「ルーンはずっと眼鏡を見ていたわ。あたし、結構長くルーンのことを見ていたのよ。気がつかなかった?」
 雨が降りしきる前の暗く沈んだ灰色の瞳がフィリエルを映した。
「珍しいわね、ルーンがそんなに考えていることって」
 このあたしに気がつかないなんて、黒の騎士失格よ? そう言っているように少し口元を上げて怒ったような顔をしてからフィリエルは笑った。
「ごめん」
 暗く沈んだ灰色の瞳が揺らいで、雨雲が過ぎ去ったような瞳に変わる。
 ルーンの手にしていた眼鏡をさらりと抜き取ると、フィリエルは自分の目の位置にまで掲げた。かける素振りをしてから途中でぴたりと止まる。
「本当に、度が入っていないのね……」
 かけるまでもなく眼鏡を通して見える世界は歪みなく、だからといって完璧に歪みがないといえばうそだった。ガラス越しに見える世界はどこか作り物めいてさえもいた。そのことに気がついてフィリエルは悲しそうな顔をした。
 眼鏡を見るフィリエルに静かにルーンが手を差し出す。何も言わずにフィリエルはそっとルーンに眼鏡を返した。
「どうして、こんなに眼鏡にこだわっていたんだろうね……」
 眼鏡を大事そうに一撫でしてから、ルーンは瞳を伏せた。そうしてしまうと色の濃い睫毛が影となり暗闇に染まっていた顔がより一層深く影を作った。
「問題があったのは、このぼくだというのに」
「ルーン……何を、恐れているの」
 フィリエルは口から滑り落ちたように自然と言葉が流れ出た。
 ルーンが驚いたようにフィリエルを見る。
「あ、違うの……そういう意味じゃないのよ」
 慌てたように驚くフィリエルを見て、ことりと眼鏡を窓枠に置いた。
「そんな所に置いてもし落としたりしたら――」
「そうなれば、ぼくはもっとルンペルシュツルツキンになれるだろうか?」
 フィリエルがはっと気がついたときには、ルーンに抱きしめられていた。
「ねぇ、フィリエルはどう思う……?」
 熱い吐息がフィリエルの耳の近くで小さく囁く。瞬間的に瞳をぎゅっと瞑ったフィリエルにはルーンの表情が見えなかった。
 しばらくその状態のまま動かないルーンに、フィリエルはゆっくりと瞳を開けてルーンの顔を見ようと頭を動かす。泣きだしそうな雲のような暗雲の瞳がそこにはあった。
「ルーンはばかね。眼鏡があろうとなかろうと、あなたはルーンだわ。いいえ、ルンペルシュツルツキン。あなた以外のセラフィールドで育ったルーンは一体どこにいるというの? ルーンはルーンでしょう? あたしのたった一人の大切な人なのよ、ルンペルシュツルツキン。あなたがどこの生まれでもどんな過去も、それはあなたの一部なの。あたしはそんなあなたが好きなのよ」
 思わず身じろいだルーンに、何よ知らなかったの、何回も言っているでしょう、と憤慨するようにフィリエルはルーンを睨んだ。
「あなたが何を気にしているのかわからないけれど、あたしは今のルーンのままでいいと思うの。それに、眼鏡なんてもうとっくの昔にあたしは似合わないと言ったもの」
「フィリエル……、よく覚えていたね」
 切迫していたような口調がうそだったかのようにルーンは憮然と言った。
「どういう意味?」
 フィリエルは瞳が釣り上がり怒ったようにルーンを見た。
「だって君、そういう昔の話はすぐに忘れてしまうから――」
「人をすぐ忘れるような言い方しないでちょうだい。あたしは――」
 暗闇でも光を反射するようなあかがね色の髪が煌めいてルーンの瞳を明るく照らした。それはまるで、ルーンの好む澄んだ星空のような色だった。
「あたしはただ――、あなたの瞳が昔から好きだったの! それを囲う睫毛もあなたに触れたそのときから、一番好きだったの」
「…………」
「その黒い髪も好きだけれど、ルーンはすぐにそれで隠してしまうから――」
 ルーンから視線を外して悲しそうに眉を寄せた。
「あたし、本当は眼鏡が嫌いだわ。博士から貰ったというのも本当は気に入らなかったし、でも、ちょっとくらいルーンの顔が見えなくてもルーンがそれでいいと言うのならあたしだっていいと言うわ……」
 どことなく寂しそうに言うフィリエルにルーンは顔を向かせた。
「ぼくにまだ言っていないことがあるね、フィリエル」
「別に何でもないのよ」
 瞳にうっすらと膜が張っているのを認めてルーンはゆっくりと聞いた。それがルーンを傷つけまいという優しさならなおのこと静かに、出来る限り優しい声でそっと聞いた。
 ちらりと光る瞳を優しい手つきで拭いフィリエルを見る。第一声が小さく震えた。
「前から思っていたことじゃないから、気を悪くしないでね。ただ、さっきちょっと思ってしまっただけなの――」
 真っすぐにフィリエルを見つめるルーンは何も発さずに、ただ無言の肯定をしただけだった。
フィリエルはルーンの服を知らずに強く握った。
「……ルーンは、眼鏡があるのとないのとでは、世界は異なって見えるの?」
 わずかにルーンの眉毛が動く。フィリエルの真意を探るように頭ではその言葉が反芻する。
「あなたが見えている世界は、眼鏡を通しても通していなくても同じように見えるの――? 眼鏡を通して見ていたこれまでのことも」
 心細そうに尋ねてくるフィリエルがルーンに縋るように身を寄せたので思わず抱きしめた。
「――あたしは、ルーンから見てどう映っているの? あたしはちゃんとあたしとして移っているの?  一点の曇りなくあたしはフィリエル・ディーとしてルンペルシュツルツキンには見えているの?」
 言わんとしていることを察して、ルーンは静かにフィリエルを見た。抱きとめて表情が見えない分直接身体を伝わっていくものが存在した。
「……確かに、いくら度の入っていない眼鏡であろうとガラス越しでは視界は少し歪んで見えるよ。どうしてもガラスの屈折率を無視することができないから。限りなくゼロに近くてもイコールではない」
 ルーンの胸に顔を埋めてフィリエルは肩を小さく揺らしていた。
「もし、あたしがちゃんと見えていないのであれば、それが悲しいわ」
「そんなこと――」
ルーンは不謹慎ながらも気持ちが明るくなることを止められなかった。
 フィリエルの髪に唇を寄せるようにしてフィリエルに囁いた。
「――眼鏡を通して見た世界も、通さない世界でもぼくにとって君は光溢れる女の子で――最初からフィリエルはフィリエル・ディーとしてぼくには見えていたよ。今も昔も。眼鏡があろうとなかろうと、君は眩しく感じられるほどに。ぼくが触れてはいけないほどに」
 腕の中でフィリエルが身じろいだ。
「それにね、いくら君を見ないように覆い隠そうと自然とフィリエルを目で追っているんだ」
「ウソよ、塔の中であたしが来たことさえ気がつかないときはたくさんあったじゃない」
「フィリエルはセラフィールドだったからだよ。博士もいた。でなきゃ研究にも観察にも集中できない。前にも言ったけれど、君がいないんじゃろくに研究だってできやしないんだ。研究者としては情けないほどに、君がいないんじゃぼくはぼくでさえいられないんだ」
涙の乾いた瞳がルーンを物珍しそうに見上げる。
「気がつくのがだいぶ遅くなってしまったけれど、事実そういうことなんだ。……こういう答えでも、いいかい?」
 腕の中で小さく肩が揺れた。
「ええ」
 笑みを含んだ明るい声が聞こえた。
「――それと」
少し恥ずかしそうにフィリエルを抱きしめてからルーンは自信なげに言った。
「結局ぼくはぼくにしかなりえないんだ。何があろうとも。いくら眼鏡をかけて過去を拭い去ろうとしても、ぼくには出来ない」
「過去がどうであろうと、あたしにとってルーンはルーンだわ。……もしあなたがどちらかを否定したのならとても悲しいと思っただけだったから」
 心配ないよ、と笑うようにルーンはフィリエルをぎゅっと抱きしめた。そこに悲哀も後悔も含まれていないことを知ったフィリエルはお返しとばかりに強くルーンを抱きしめ返した。



「どうしてこういう展開になったのかしら?」
 寄りか掛かるようにルーンに重さを預けて不思議そうに呟いた。
「さあね、忘れた」
「ずるいわ」
「そういうのは脳に聞いてくれ。脳の仕組みなんて、ぼくにはまだわからないよ」
 話しを打ち切るように顔を近づけて、せがむようにルーンは続きをねだった。

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