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【さりげなく】
「あ…」
修行も終えて、入浴を済まし、もう寝るだけの状態になった彼はカレンダーを見てつい声を上げた。
「…忘れてた」
最近目まぐるしい日々を迎えていたため、重要なことが頭から抜け落ちていた。零は深い溜め息をついて眉を寄せる。
「まあ、いーか」
「何がいいのだ?」
「…っ、貴方は、いつもその穴から出入りするの止めてください」
もう共に寝るという彼女の考えを否定するのも諦めている零は、せめて入室方法だけは改めさせようと吐き捨てた。しかし、彼女は何も気にしていない様子で、いいじゃないかと笑って布団に入り込む。
「それより、何がいいのだ?」
「いえ…なんでもありません。そういえば桜小路さん。明日の放課後って時間ありますか?」
「む? 別に何もないが、何かあるのか?」
「いえ、最近ごたごたしてたので、時には渋谷荘から離れたとこで本でも読みたいと思いまして…」
こんな状況で零らしからぬ発言に、桜は首を傾げた。それだけで襟元から彼女の胸元が覗きそうになるのだから落ち着かない。毎回この豊富な胸と柔らかな体を押し付けられる度に、理性を失いそうになった。
「そうだな、気分転換は必要だぞ、大神。しかし、私も一緒にいていいのか?」
「来ないんですか? まあ、貴方が来ないなら別に遠慮なく一人で静かに本を読みますが」
「いや、行くぞ」
聞いておきながらさらりと同行すると言う彼女に、もう苦笑すら浮かばない。むしろ当然とばかりに行くと言って、ついてきてもいいのかなんて今更な言葉を投げるとも思わなかった。
「では、明日…いつものあのレストランで」
「あぁ、そうだな。ふふ、楽しみなのだ」
まるでデートの約束をしたような気分になりながらも、彼女がすぐに寝息を立てる姿を見守った。気づかれないよう、微かに彼女を抱き寄せて、零もそっと目を閉じる。
「桜小路さん」
「む?」
翌日の昼休み、普段なら男子と共に食事をする零が珍しく声をかけてきた。
普段はどちらかというと桜から声をかけることがほとんどだ。それこそ、緊急事態でない限りは。
「どうかしたのか?」
「すいません、次の授業に使う辞書を忘れてしまって」
「あぁ! 確かに今回の国語は辞書がないと厳しいな。なら私のを貸してやろう。私はあおばに見せてもらうしな」
「助かります」
すぐさま出てきた辞書を受け取って、零は席に戻った。机の中に手を入れれば、そこには忘れたはずの国語辞典が入っている。
「まあ、こんなところでしょうか」
そっと息をついて笑う。何も知らない桜を見ながら、自分の辞書を更に奥へと押し込んだ。
「おぉ、何だか懐かしいのだ! やはりここはいつ来てもいい香りでいっぱいだな、大神!」
「そうですね。ついでに夕飯もここで食べるつもりですから、桜小路さんは好きなもの食べててください」
「ぬ、そうなのか? しかし、私はあまり手持ちを持っていないぞ?」
お茶だけだと思っていた桜は、あまり財布にお金を入れていなかった。せっかく大好きなレストランに来ているのに勿体ない。そう思い、肩を竦ませれば、微かに零は笑う。
「今日は辞書を貸してもらいましたし、僕がお礼としておごってあげますよ」
「そ、それは悪いのだ! 辞書など、いつでも貸すのだ。気にするな」
「…」
前のように何も考えずに受けとるかと考えていた零にとって、この受け答えは予想していなかった。どうするかと頭を悩ませるが、他にいい言い訳が見つからない。
「いいから好きなの食べてください。オレの前で我慢してる顔なんてしないでくださいよ。見ていて気が散ります」
「む、何だそれは! 何をムキになってるかは知らんが、そう何度もお前の世話になるわけにはいかないぞ!」
「いいから、好意に甘えろって言ってんだよ! あんたは黙ってメニュー見てろ」
ブラックな零の言葉に彼女は押し黙る。一体どうしてそんな顔をされないといけないのか。納得がいかないが、意見を覆す気にならなそうだ。
いい香りに包まれて、今にも腹が鳴きそうなこの状態で、桜もずっと我慢は出来ないだろう。
「むぅ」
「オレが奢りたいって言ってるんです。貴方は笑ってそれを受け取ってればいいんですよ」
まだ渋る彼女に、そう優しく呟いた。久しぶりに見る穏やかな表情に、とくんと胸を鳴らして彼女は俯く。
「わかったのだ。ありがたくもらうぞ」
「えぇ」
「ふふ、ここは…お前の意外な一面が見れる、穴場だな」
楽しそうに笑った彼女に、零は少し驚いたように目を丸めたが、すぐに戻した。
さりげなく、彼女にバレンタインのお返しをするつもりだったが、結局半ば無理やりになってしまった。
それでも彼女が喜んでくれたなら、それでいい。
ここは、少しだけ素直になれる…そんな場所なんですよ。
心の中だけで呟いて、幸せそうに食べる彼女をコーヒーを口に含めて盗み見た。
去年とあまり変わらない、だけど確実にお互いの気持ちに変化があった、そんな一日。
終わり