□生きる
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扉の向こうで女が合図をする気配があった。こんこん、と軽く二度。扉を向こうからノックしている。
マダラはおおきくいきをすい、鍵を開けてなかにはいった。女はさっきと同様、男に背を向けうつむいている様子だったが、天窓からの星の光ひとつ入っていないせいで実際、マダラの目には女の肉体の輪郭すら定かではなかった。

「こっちにこい」

マダラは言い、手探りで布団をまさぐった。布団はもう何ヵ月も干していない。ほんのすこしすえた匂いがしているが、その匂いの中に女の体臭が混ざっている。マダラのすきな体臭である。
女がやって来た。するすると衣擦れの音がしたかと思うと裸の女が布団のなかに入ってきた。

「黙っていては駄目だ。何度いったらわかる。俺の前にいるときは何かこえを出していなければならない。」

「はい」

「はいだけじゃ駄目だろう。何か話せ。なんの話でもいい。狐の赤ん坊のはなしでも、雪の話でも……」

「ごめんなさい。もう話すことが何もないのです。」

マダラは深いため息をついた。喋る内容などどうでもよかった。それが例え、もうなん十回と聞いた狐の話でも、雪が降るたびに話している話であったとしても。その声を聞き続けることがマダラの慰めであり、生きるすがであった。

「いいことを思い付いた。」

「何をですか」

「お前をこうして目の前にしていながらお前の顔を見ていなくてもすむためにはどうすればよいのか、ずっと考えていた。声だけこころゆくまできいていられるようにするにはどうすればよいのかと。俺は決めた。お前のために、自分自身の目を潰すことにした。」

「目を?」

「あぁ、そうだ。」

闇のなかで女は体を強ばらせたがやがて、ふふ、とくぐもった声が返ってきた。「それはとってもいいお考えだわ。」

「そうすれば、お前とずっと一緒に暮らしていられる。どれ程明るい光の中にいても、お前と向き合っていられる。お前を前にして明かりを恐れずにすむようになる。」

「気がつきませんでした。本当にそうですのね」

「嬉しいか?」

「嬉しい?私が?」

「そうだ。お前も嬉しいはずだ。俺のまえで後ろを向いていなくてもすむようになる。」

「それはわかりますけど……。」

女はそれ以上なにも言わなかった。マダラは結局その日にそれ以上女の声を聞くことはできなかった。

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