3月のライオン(夢)

□隈倉10
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この日も、偶然彼を見かけた。

将棋会館からは少し離れていたが、以前見かけた公園からはさほど離れていない場所。

そう言えば、知り合いの店が近くにあるとか言っていたかと思い出しながらその姿を目で追って行く。
今日は何も食べていなかったので、いつも見る幸せそうな顔はしていない。

「・・・」

真剣な顔で店員と話し、凛々しい顔で商品だろう物を見て、ふわりと笑う。

見知った笑顔ではなかったけれど、知っているあの青年に似合うのはやはり笑顔だと思う。

そのまま見ていれば、店員だろう女の子の頭を撫でて店から出てきた。

青年はこちらには気づかず歩き出す。
横断歩道の信号は青で、人通りの少なくなっているそこを渡って行く青年と数名。
歩行者用の信号が青だと言うのに、スピードを落とさず走って来るバイク。

青年が隣を歩いていた女性の腕を引いて後ろに下がった。

驚いて転んだ者もいたが、事故にはならずに済んだようだ。

青年が助けた女性はスマートフォンを見ていてバイクに気づかなかったようだったが、青年に助けられた事は分かったようだった。
いや、それ以前に青年を見上げて頬を染めている。

『本人は落とした自覚なし。天然タラシだったよ』

スミスが控室で言っていた言葉を思い出す。

きっと、ああいう所がみんなに好かれるのだろう。好かれて当然だとも思う。

女性がスマートフォンを差し出しているのは、連絡先を交換してほしいと言っている所だからだろうか。
しかし、青年は笑いながら手を振ってそれを止め、転んだ拍子に緩くなってしまった髪留めに手を伸ばす。

『本人は落とした自覚なし』

その通りだと思った。

青年の手によって止め直された髪留め。
青年を見上げたまま固まっている女性。
自分がそう言った方面に鈍くても、経験が無い訳ではない。

あの女性は、青年に惚れただろう。

青年は女性と一緒に横断歩道を渡り笑顔で手を振って別れた。
女性はその背中をいつまでも見つめていて、それは絵に描いたような恋の始まりだった。


来客を告げる呼び鈴の音。
客を出迎える店員の声。
顔を上げると、青年と目が合った。

「ぐはっ!隈倉さっ!はっ、こ、ここんにちは!」

取り乱した自分を落ち着かせて挨拶をして来るのを見て、店員が俺の前に青年を座らせようとするが、青年は慌てて両手を振った。

「一人なら座ると良い」
「え、い、良いんですか!?」

「ああ」

頷けば頬を染めて、礼を言いながら「お邪魔します」と向いに座る。

「さ、最近、よく会いますね」
「そうだな」

「今日は対局じゃ、無いですよね?」
「ああ、同じA級の棋士が指すのを見に来たんだ」

「そうだったんですか!」

ニコリと笑う青年に、モヤモヤしたものを感じながらコーヒーを飲んだ。

「あ、あの」
「?」

斜め下を向きながら視線を泳がせ、チラリとこちらを見てまた視線をさ迷わせる。

「あの、この前は、大丈夫でしたでしょうか」
「この前?」

カップを置いて聞き返せば、顔の赤みが増した。

「その、知り合いの所に持って行ってすぐに冷蔵庫に入れてもらう予定だったので保冷剤とかも入れてなかったし、いや、それ以前にあんな崩れたモノをお渡ししてしまった事にかなりの心残りがあると言うか」

「・・・ケーキの事か?」
「、はい」

以前青年に会った時に押し切ってもらったケーキ。
あれはその日の内に四分の三は食べてしまい、残りも次の日には無くなった。
口に入れる度に美味いと思ったあのケーキの事を思い出し、表情が緩みそうになった。

「とても美味かった。君は料理が上手いんだな」

思った事を伝えれば、青年の顔に差していた赤みが首や耳にまで広がり、

「あ、りがとうございます」

先ほど店で何かを見ている時はあんなに凛々しい顔をしていたと言うのに、今はその凛々しさは欠片も感じられない。

今の表情から思う事は、“可愛い”という言葉だけだった。

「きょ、今日はっ、甘い物の気分じゃなかったんですか?」

話題を変えようとしているのか、店員が置いて行ったメニューを開いて眺め出す。
赤い顔は変わらないままだったが。

「ここのプリンパフェすごく美味しいんですよ!ボリュームもあって」
「そうなのか?」

「はい!お勧めです!」

それは知らなかったと、青年が見せてくるのはメニューの一番後ろに書かれたチャレンジ!の文字。

「六十センチオーバーのプリンパフェなんですけど、注文の時に言えば普通サイズにしてもらえるんです」
「君はいつも普通サイズを頼んでいるのか?」

「・・・」
「?」

「・・・っ、六十センチオーバーでっ、頼んでますっ」

ここに来る時は仕事明けで、頑張った自分へのご褒美で、毎日とかじゃないんですと両手で顔を覆いながらさっきよりも真っ赤になりながら弁解してくる。

「は!チャレンジメニューですけど!チャレンジはしてないです!早食いはしてないです!大食いですけど早食いではないんです!!」

本当なんです!と必死なその顔を見て、笑ってしまった。
この青年の顔は、本当によく変わる。
驚けば驚いた顔になるし、嬉しければ嬉しそうな顔になるし、

「っ!」

笑った俺を見て、また目線を泳がせながら赤い顔を下に向けた。

『これでそいつが女だったら交際スタートだな』

本当に、そうかもしれない。

「君の注文はそれだけか?」
「えっと、後は紅茶を、」

「そうか、決まったら教えてくれ」
「?」

「俺も食べてみたい」

だからその六十センチオーバーのパフェを頼むと言えば、赤い顔を上げてこちらを見て来た。
そして、まだ何も食べていないのにあの顔をする。

「でも大丈夫ですか?本当に結構な量ですよ?」
「俺も大食いなんだ。早食いではなくて」

「、」

少し引いていた赤みがまた戻ってきた。
そして、その顔を隠す様に下を向いて飲み物のページを探すようにめくり出す。
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