短編集(夢)
□上杉謙信
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泣いて泣いて、上手く瞼が開かない。
手を引かれるまま歩いて、どこかの建物へ入った。
上手く息も出来ない私は、謙信様の匂いがするベッドへ押し倒される。
「謙信、様?」
見上げれば振って来る口づけ。幸せが胸を満たして行くけれど、
「い、いけませんっ」
謙信様と契るなど、侍女ですらない私が許されるはずがない。
「何が問題だ」
「私の様な女が謙信様と床を共にしたと知られてはっ、下の者に示しがつきません」
この心地好い腕の中から出たくない。
けれど、謙信様の立場を悪くする訳にもいかない。
「誰にも文句は言わせぬ」
逃げようとする腕を捕まれて、大きな体の下に隠される。
口を塞がれて目を閉じる。ああ、暖かい。謙信様に触れられた体が、喜びで震えていく。
「謙信様っ」
お慕いしておりました。
生きた貴方様に伝えられるなど、こんな喜びを感じても良いのでしょうか。
私の口から、聞いた事も想像も出来ない甘い悲鳴が上がる。
ただ幸せだった。
全身をくまなく愛撫され、喜びの涙を流す私を労って、まるで繊細なガラス細工でも扱うかのように解かれていく体。
目の前にある逞しい胸板をさらに見上げると、太い首が見えてくる。上下する喉仏と、私に向かって落ちて来る汗。
「これからもずっと、お慕い申し上げます」
謙信様がこんなにも私を大切にしてくれていると、思ってもいいでしょうか。
今だけでも、勘違いでも構いません。
「好きです」
あんなに丹念に解いていただいと言うのに、膜が裂ける音を聞きながら痛みと喜びに涙を流す。
「好きですっ」
私は譫言のようにそれだけを言い続け、理性のある人間とは思えぬ声を上げることしか出来なくなった。
目が覚めて、自分が服を着ていない理由を思い出す。
「・・・」
隣を見れば疲れきった女が寝息を立てていた。その目は腫れていて、体には自分が付けた鬱血痕。
至る所にあるその痕を眺めて、夢を見ていない事に気がついた。
この女がいつも夢に出てきていたあの女で間違いないだろう。疑いようもない。自分しか知らない言葉を、再現されたのだから。
どこの誰で、何者なのか。
分からない事だらけであるが、
「・・・俺もだ」
この言葉は、目の前の女に向けて呟いた。
目が覚めたら、知らない部屋にいた。
安心する匂いに包まれて、怠い体を半分起こす。
「・・・そっか」
そうだ、ここは謙信様の部屋だと自分を見下ろして、慌ててシーツを引き寄せる。
「服っ、あ、あったっ」
何があったか思い出しながら慌てて服をかき集めて立ち上がる。
「け、謙信様、?は、いない」
まだ外は暗い。早過ぎる起床だが、どこかも分からないここから家まで帰って着替えて学校に行くことを考えると早いとは思わなかった。
とにかく気付かれる前にここを出なくてはと下着を身につけていると、後ろで扉が開いた。
「・・・」
振り返ると、高い位置から見下ろされていた。
一気に顔から血の気が引き、
「す、すいません!すいません!!」
さっきまで纏っていたシーツを体に巻き付けてベッドの奥へと後ずさる。
「なんか本当にすみません!わ、私どうかしてますよね!!あのっ、服を着たらすぐに出ていきますからっ、ご、ご迷惑はおかけしませんので!!」
これ以上無いほど迷惑をかけているような気がするが、そこはもう取り返しがつかないので触れないでいただきたい。
「・・・服を着たら、リビングに来い」
それだけ言って、男の人は部屋を出て行った。扉が閉まる音を聞いてから、顔を上げる。
「・・・」
昨日と違う声音に、頭を殴られたようだった。
(当たり前か・・・)
きっとあの人は私のように謙信様の夢を見ていたに違いないと、体を小さくして膝に顔を埋める。
同じ夢を見たからといって、同じ気持ちでいる訳がない。
流れていく涙をシーツに染み込ませていく。
昨日もあんなに泣いたのにと思っても、涙は止まらない。
「っ」
不快感を感じない体に、謙信様が拭いてくれたからだと顔を歪めた。
大切にされたと涙が流れていく。
まるで、夢の続きを見ているようだ。
でもこれは夢ではなく、現実の話し。
好きになった人と過ごせるのは、きっと今日が最後。
一度でも抱いてもらえたのだからそれで良いじゃないかと思っても、涙は流れていく。
『お慕いしておりますっ』
そうだ。この気持ちを私は知っている。
長い間感じてきたのだから。
「これからもずっと、お慕い申し上げます」
例えこれで終わっても、これからもずっと、この想いは消えない。
胸が引き裂かれるような、死して尚収まらない恋慕。叶わぬと分かっていながら、願ってしまう。
「謙信様っ」
心臓が爆発するような、全身全霊の恋心。
『なんか本当にすみません!わ、私どうかしてますよね!!あのっ、服を着たらすぐに出ていきますからっ、ご、ご迷惑はおかけしませんので!!』
頭の中を回り続けるさっきの言葉。
昨日の言葉は自分の勘違いだったのかと、落ちる肩は下がるばかりだった。
『お慕いしておりますっ』
「・・・」
あんなに一途に思われてみたいと思った。
『好きです』
あれは自分に言われたのではなく、夢の中で死んでいた男に言われたのだと理解して目頭を抑える。
『好きですっ』
数時間前に聞いた言葉が、手の届かないところへ行ってしまったようだ。
自分を見上げたと思っていたあの目も、言葉も、一心に伝えてこようとするあの想い全て、自分のものではない。
「・・・」
もう、手に入れることは出来ないのだろうか。
不可能なのだろうか。
あの想いを自分のものにする事は、出来ないのだろうか。
しばらく考えていたが、ため息を吐いてソファーの背もたれへ体を預けた。
ふと、壁に掛かっている時計を見てずいぶん時間が経っている事に気がついた。
たかが服を着るだけでこんなに時間がかかるのだろうかと立ち上がり、寝室へ向かった。
「これからもずっと、」
聞こえてきた声に、扉を開けようとしていた手が止まる。
「お慕い申し上げます」
声を押し殺しているのか、辛うじて聞こえる程度のそれに全身が心臓になったような錯覚をおぼえた。
「謙信様っ」
強張る手でノブを回す。
中には、先ほど見た時と同じようにシーツを被ったまま体を小さくして泣いている女がいた。
「好きです」
呟かれる言葉が静かな部屋を満たしていく。
「好きですっ」
その言葉が誰に告げられているのか分からない。
これが夢であれば、女の側に自分が横たわっているはずだ。なのに、自分は今女を見下ろしている。
「謙信様っ」
その謙信が、夢の男なのか自分なのか。
「・・・泣くな」
近づいて涙を拭う。その一途な想いが手に入らなくても、この気持ちは変わらない。
ここにはいない男を、そんなに泣きながら呼んでいるのか。
「泣くな・・・」
見上げさせたその目に写っているのは、自分なのか、それとも。