そこにあるもの

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 わたしたちを包む雑踏。喧騒。少し赤みがかかった空気。
 ここは夕方の街中の歩行者天国だった。
 いつもは自動車が行き交う道路はさっき行われていたイベントのお陰で通行止めになっていた。
 いつもに増して人が多いここを、はぐれないようにと名目付けて手をつないだままわたしたちは歩いていた。

「春歌、ちゃんと来てるか?」
「あたりまえじゃん、手、つないでるんだから……」
「そっかそっか」

 わたしの少し前を歩く彼は分かりきってることをわざわざ訊いてきて、わたしが照れるのを面白がって見ている。相も変わらず意地悪だ。

「……でも、ほんとにはぐれるなよ。俺から離れんなよ、春歌」
「だ、だから大丈夫だって」

 今度は本当に心配した顔で訊いてきた。わたしはまた照れるけど、彼は心配した顔のままわたしを見ていた。

「春歌の家ってこっからどう行くんだっけ」
「そこのメガネの広告のビルを右に行ってね……」

 夕暮れはわたしと彼の顔をほんのりと赤くしていた。紅潮しているかのようにも、泣きはらしたかのようにも見えるその赤は、薄まることなく空気をも赤くしていくようで。

 どこからともなく悲鳴が上がった。少し遠くから聴こえていたけどわたしと彼は立ち止って声が上がった方を見やった。どうやら右後ろの方のようだ。
 遠くの群衆はだんだんと割れるように道を作っていく。何かを通すかのように、また、突進する何かを避けるように。
 わたしたちの近くにいた人も立ち止まっては向こうの様子を見やる。未だ悲鳴は遠くにあり、ここからは何が起こっているのか分からない。

 割れた人だかりの間から出てきたのは、直進してくる大型トラックだった。

 おそらく4トンはあるだろう。行く先が定まらないかのようにフラフラと蛇行運転をしながらもだんだんとスピードを上げてきている。

 わたしは足が地面に縫いつけられたかのように動けなくなった。
 逃げなければ轢かれる、分かりきっている事実が目の前にある。頭は理解しつくしていて早く逃げろとしきりに信号を送ってきているのだと思う。でもそれが手足までいかない。
 ああ、早く逃げないとね。逃げないと轢かれてしまうね。
 そんなことを思っている間にもトラックは刻一刻と迫ってきていた。

「春歌! 春歌ってば! 行くよ、逃げるよ……!」

 彼の声も必死にわたしを逃げさせようとしている。周りの人たちもわたしに逃げろと叫んでいる。
 逃げろ、逃げて、早く逃げないと……

 ――でも足が動かないんだよね、

 トラックは目の前に、そして鉄板と肉塊がぶつかる衝撃音。
 ぷっつりと意識が途切れてわたしは闇に、


 最後に声が聞こえた気がした――わたしに向いてはいなかったけれど。




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