小説U

□君名呼紡
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――嗚呼、耳障りだ、

安穏とした雲がゆったりと空を滑る。そんな真っ青な空を見上げ、ふと、思った。
何時もならさほど気にならないのに。常に笑みを張り付け温厚でいようと努めていたのに。その時は何故だか、剣術の稽古をしている同期や先輩達の声の雑踏が耳に響き残るのに嫌気が差して、藍染惣右介は一人、修練場を抜け出した。

我ながら行動にしたのは珍しかった。
今自分がある立場は、他者からすれば充分過ぎる程に満ち足りているものだろう。その実、羨望や尊敬の眼差しを受ける事は多々あった。自分でも、人に囲まれる存在であるのは心地よかった、と。そう思っていた、筈、だった。

其れは小さな違和感、異物感。

今、自分の存在は何処に在るのか。
地に足が着かず不安定に宙に浮いてるような感覚だ。此処でも無く其処でも無く、本当の自分の居場所は一体何処だ、と。そう苛まれる事が時々あった。けれどもそう思うのも極短時間、一時であった為今日今までは特に気にはならなかった。真に落ち着く事は出来なかったが、目を瞑れば済む些細なものだったからだ。総てはその時の気の侭。自分は其れに従っただけ。
視界に色を入れる、風に吹かれて舞い踊り散るこの桜のように。流されるが侭流されて行く。其れが一番気楽で一番穏当。
だからその時も何処へ行こうだなんて思考の外。そのまま気分転換と称し、藍染は普段は立ち寄らない瀞霊廷の端まで歩いて行った。

ふと、ある場所で足を止める。

辺りは自然の音以外無駄な音が無く、至って静かだ。春の息吹を感じる新緑と淡桜に囲まれた中で感じた、不似合いなそれ。すん、と息を吸えば戦場で嗅ぎ慣れた、鼻の奥にこびり付くあの鉄の匂い。


「…血」


此処は瀞霊廷内だ。近くで殺傷沙汰が起こっているとでもいうのか。歩を進めればその匂いはより鮮烈なものとなっていく。
人影が見えたのは大振りな花房を抱えた桜の樹を抜け掛かった時だった。
淡桜、黒髪の次に視界に入ったのは、太陽の反射を受け鋭く煌めくもの。そして白い肌を伝う紅色。


「自傷行為かい?」


彼女の背後から声をかければ、それまで細腕から流れ出る紅い血を見ていた瞳が、藍染へと向けられた。
それは、見た瞬間目に付くような華やかな美しさでは決してなかった。しかし暫く見つめていたい誘惑に駆られるような、そんな美しさだった。意志の強さを窺わせる、相手の心の底までを見抜くような、強くて深い黒曜石の瞳。不意打ちを食らった感覚の藍染は、暫し息を呑む。
そんな藍染の姿を認めた彼女は、口元に微かな笑みを浮かべた。


「この熱こそ、我が命だ」


――気でも狂っているのか。
つ、っと持ち上げた腕からは血が滴り落ちる。この場に相応しくない微笑みを浮かべ此方を振り返った彼女の言動に、内心動揺を隠せなかった。それをなんとか抑え、至って冷静に藍染は声を発する。


「死にたかったのか?」

「違う」

「じゃあ何をしている」

「私は今、生きている」


唄を紡ぐかのように耳に届いた言葉は、藍染の想像を絶するものだった。
しかし穏やかなしっかりとした口調と、手首に見えた切り傷に、隠せなかった動揺も最早其れ自体が消えてしまった。
藍染は懐から白い手拭いを取り出すと半分に裂き、彼女の腕を取った。溢れる血が藍染の手をも伝い、新緑の地に染みていく。白く華奢な手首から溢れ出す真っ赤な其れを拭い取り、二の腕できつく止血をした。


「命を粗末に扱うものじゃあない」

「確かめたかっただけだ」

「何を?」

「今、此処に生きているのかを」


だからこれは私が生きている証だ、彼女はそう呟きそっと目を閉じた。
もしかしたら彼女は自分と同じなのかもしれない。藍染はもう半分の手拭いを包帯状に細長く切ると、手首に巻きながら彼女を盗み見た。
長い睫毛は揺れ、漆黒の長い髪は春風に踊り甘い香りを漂わせる。ゆっくりと開かれた大きな瞳は藍染を映してはいるが、別の何かを捉えているような気がした。


「有難う」


風が桜の樹々を盛大に揺らした。
微笑みから生まれた言葉は自然と藍染の鼓動を早める。彼女に興味が湧いたとでもいうのか。自身でも驚いた事に其れを起源とし、もっと彼女を知りたい、と思う自分が其処に存在し、自然と次の言葉が出た。


「君、名前は」


しかしそう訊いたところで、遠くから何かを叫んで誰かを捜している声が聞こえた。アキトキ様、アキトキ様、と。声のする方向へ視線を向けてから、もう一度視界に藍染を入れた彼女は、ふ、と花咲くように笑った。そして一言だけ残し藍染の手をそっと離させ、立ち上がり歩いて行ってしまった。
それから漸く、捜していた侍女姿の者達が彼女を見つけると、一斉に彼女の元へと駆け寄った。
離してしまった手には、彼女の手の柔らかな感触と温もりが僅かに残存している。追い掛けようとして追い掛けられなかったのは、入ってはいけない雰囲気だったからではない。
では、一体何故だろうか。


『名は昔に捨てた』


自分の問いに答えた彼女の言葉を思い出しながら、藍染は改めて自身の掌に視線を落とした。其処に付いたアキトキ、と呼ばれていた彼女の鮮血を見つめる。
其れは掌の上に丁度舞い降りた花片を、紅く侵し、淡い色を紅く染め付けた。



 君名呼紡サクリファイス





 
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