短編
□拍手log
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『穏やかな時間』
それはある小春日和のこと。
幸村精市はあるものを目の前にして、少し困っていた。
少し……いや、それにどう対処すればいいか、本当は分かっているのだ。
肩を叩くなり、声を掛けるなりして、覚醒を促せばいい。ただそれだけのこと。
今日は割と暖かい日差しが降り注いでいるとはいえ、これから冬に向かおうという季節。
このまま放っておいては、風邪を引かないとも限らない。
なのに幸村がその行動を躊躇しているのは、単にこの目の前で、ベンチに座って寝こけている彼女が、幸せそうな顔をしているからであって……。
知らず幸村は、軽く溜め息を吐く。
「本当に、幸せそうに寝てるね」
よくもこの状況下で寝られるものだと思わないでもないが、柔らかな陽の光に縁取られた彼女の寝顔を見ていると、それだけで自分の表情まで和らいでいくのが分かる。
どことなく幸せな、穏やかなこの時間を、もう少し感じていたい。
その想いが、幸村の時間を止めていたのだ。
「……んぅ」
彼女が身じろぐ。
とりあえず風邪を引かないように、と幸村は自分の羽織っていたジャージを、彼女の肩に掛けようとした。
その瞬間、彼女の上体が大きく傾ぐ。
元々がベンチに座って寝るという、不安定な体勢だったのだ。それが先程の身動きで、微妙なバランスが崩れたのだろう。
このままでは、ベンチで頭を強打するか、地面に顔から突っ込んでしまう!
思うと同時に、幸村は動いていた。
彼女の倒れ行く方向に、己の身を滑り込ませる。
左半身に人の温かさを感じ、彼女の支えになれたことを確認して、幸村はほぅと息を吐いた。
そして、ふと気付く。
しまった。何座ってるんだ、俺は。
左に掛かる重みは、彼女が自分無しでは、この体勢を維持出来ない事実を伝えてくる。
しかし肝心の彼女は、これだけ体勢を崩しながらも、起きる気配を見せない。
心地良さそうな寝息が、微かに幸村の鼓膜を震わせる。
幸村はちらりと時計に目を走らせ、その端正な顔を少し、そう、ほんの少しだけ歪めた。
時計の針は、あと15分ほどで部活が始まることを告げている。だが部活に行くためには、この状態を何とかしなくてはならない。
一番手っ取り早いのは、彼女を起こすことなのだが、それをするくらいなら、見つけた時点で起こしていた。幸村には最初から、彼女を起こす気はなかったのだ。
一秒もかからず決断した幸村は、彼女を起こさないよう、慎重にバッグの中を探り携帯を取り出すと、メモリーの中の一つを選び出す。
コール音が三回鳴るか鳴らないかのうちに、耳に聞き慣れた落ち着いた声が届いた。
『精市か。どうした?』
「悪いけど、今日は遅れて行く。事によったら、休むかもしれないな」
携帯の向こうで、息を詰める気配がした。
『どこか具合でも?』
「いや、全然。ちょっとした野暮用だよ」
心配の混じった声音を、微笑みながらかわす。
「真田にも、そう伝えておいてくれないか、柳」
『ならば、直接弦一郎に電話すれば』
「するだけ無駄。あいつが携帯に出るわけないだろう」
もっともな幸村の言葉に、柳が喉の奥で笑う。
その柳の声から、突然笑いが消えた。
『精市、今校外か?』
「校内だ」
『そうか。では、俺の見間違いではないのだな』
その言葉を最後に、通話が切れる。
そしてきっかり5秒後、ベンチに座る幸村の前に、携帯を手にした柳が姿を現した。
突然現れた自分に驚く素振りも見せず、優雅に微笑む幸村に、柳は深く頷いた。
「成程。こういうことか」
「そう。指示を出すだけなら、ここからでも出来ないことはないけど。間違っても、真田が俺を探しに来たりしないようにしてくれよ?」
真田が幸村達を見つけようものなら、あの大声で怒鳴り出すことは確実だ。
幸村の柔らかな声と口調に、隠しきれない、というより隠そうともしない『邪魔するな』という明確な意思が読み取れる。
コートから見ようと思えば見ることの出来るこの場所に居ながら、『あの』真田を誤魔化せと、ニッコリと微笑みながら宣う神の子の背に見えるのは、純白の翼か、それとも漆黒のそれか。
せめてテニスコートから、完全な死角になっていてくれれば良いものを。
多少忌々しく思いながらも、柳はその脳内で、真田への対応をシミュレーションする。
取り敢えずは、全員で弦一郎を誤魔化すしかないだろう。
そのためには、一刻も早く部室に行き、レギュラーに事情を説明しなくては。
部活開始までの残り時間を考え、柳は少し強張った顔で頷いた。
「……善処しよう」
そうして踵を返した柳を見送ることもなく、幸村は誰が見ることもない、極上の微笑みを、左半身に凭れて眠る愛しい彼女へと向けたのだった。
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(07.12.27)