灰紫の語り部
□紫陽花 -あじさい-
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「降ってきそうだな…」
イヌカシの経営するホテルの清掃の仕事を終え、外に出た紫苑は、雲行きの怪しい空を仰いで呟いた。
どんよりと黒い雨雲に覆われた空。
まだ陽は沈んでいない時間のはずだが、辺りは暗く、空気は水気をたっぷりと含んでいる。
「急いで帰ろう」
紫苑は、護衛用にとイヌカシが貸してくれている茶色の毛の犬に言った。
利口な犬は、紫苑の言葉を理解して、すたすたと歩き始めた。
紫苑も早足で歩く。
雨を浴びるのは嫌いではないが、今、紫苑が身につけている衣服はネズミから借りているものなので、濡らしてしまうのは忍びない。
ネズミの、服。
紫苑はまだ西ブロックに来てから、ほとんど衣服を買っていないのだ。
今朝、洗った服が乾いていなくて、着るものがなくて困っていると、ネズミがぶっきらぼうに投げ渡してくれた。
言わば、この服は、ネズミの優しさの結晶なのだ。
ふと、そう思い、紫苑は微笑んだ。
温かな風が心を吹き抜ける。
しかし、それと同時に頬に冷たい雫が落ちてきた。
それを皮切りに、次々と雫が落ちてきて、紫苑は反射的に、傍にあった木の下に駆け込んだ。
木は大きく、葉が豊かで、雨宿りをするには非常に適している。
「困ったなぁ」
これでは、ネズミの待つ部屋にいつ帰れるか分からない。
紫苑が苦笑すると、犬が紫苑の手を舐めた。
ざらりとした舌の感触が、くすぐったい。
木の根元にしゃがみ、紫苑はぼんやりと雨を眺めた。
隙間なく落ちてくる雫は、まるで白い幕のように見えた。
目を閉じてみると、その音は絶え間なく響く歌声のような、神秘的なハーモニーを奏でている。
台風などではない、梅雨の雨は静かで、どこかもの悲しくさえあった。