灰紫の語り部


□悦楽に身を委ねたって
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「『瞬間に向かってこう呼びかけてもよかろう、留まれ、お前はいかにも美しいと』……」

紫苑はベッドに腰かけ、小ネズミたちに『ファウスト』を朗読して聞かせている。

おれは年季の入った椅子に身体を委ね、その声に耳を傾けながら、夢と現の狭間をうとうとと彷徨っていた。

紫苑の声は、心地よい。

透き通るような白髪に似合いの、やわらかな声。

お人好しな性格が滲み出ている。

ふいに、声が止んだ。

まだ聴いていたかったのに、という不満を込めて、紫苑を見る。

目が合った。

紫苑がこちらをじっと見つめていた。

「何?」

尋ねると、紫苑は僅かに頬を赤らめた。

何か言おうと口を動かし、またすぐに閉じてしまう。

「何なんだよ?」

紫苑が目を伏せる。

「いや…可愛くて…」

「え?」

「可愛くて」

「誰が?」

「きみが」

「はぁ?」

開いた口が塞がらないとは、まさに今のおれのためにある言葉のようだ。

「ネズミ、うとうとしてただろ」

紫苑が口元を弛ませる。

見られているとは思っていなかった。

紫苑は淀みなく朗読していたから、本に集中しているのだとばかり思っていた。

「なんか無防備で…可愛かった」

「あんた、遂に頭がおかしくなったんじゃないの。あ、元々か」

「おかしくない」

「おかしい。絶対おかしい。気持ち悪いこと言うから、全身がかゆくなったじゃないかよ」

「思ったことを言っただけだよ」

ぷいっと顔を逸らし、紫苑はおれに背を向けて座り直した。

機嫌を損ねてしまっただろうか。

しかし、おれに向かって可愛いだなんて、一体どういうつもりなんだ。

おれは男だ。

可愛いなどと言われて嬉しいわけがない。

「……ばか…」

時計の秒針の音にかき消されてしまいそうなほど、とても小さな声が聞こえた。

一つ息をついて、おれは紫苑と背中合わせに座る。

そのまま、しばらく無言で、お互いの鼓動と体温を背中で感じていた。

チチッ。

小ネズミたちが密やかに鳴き交わす。

紫苑が身じろぎ、おれの背中に頬をすり寄せてきた。

「きみは、大人びていて、強くて、頼りになって、多才で、かっこいい」

紫苑が呟いた。

「知ってる」

照れ隠しで、ついそっけなく強がりを言ってしまう。

紫苑が小さく笑った。

「うん。だけど、だからこそ、うとうとしている無防備な姿が……なんだか、きみを身近に感じられて、可愛いって思ったんだ」

「いつもは身近じゃないわけか」

「うん…きみは、とても遠い存在な気がする。こんなに近くにいるのに。温もりを感じられるのに…」

紫苑が、おれの胴体に腕を回す。

ぎゅっと締めつけてくる。

再び、束の間の静寂が訪れた。

紫苑の肌の柔らかさ、温かさ、鼓動の確かさが胸を満たしていく。




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