灰紫の語り部
□夏の空の下で
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9月7日。
今日はぼくの誕生日であり、ぼくがネズミと初めて出逢った日でもある。
何も期待していないふりをしてはいたが、昨晩ベッドに潜り込んでから、なかなか眠れなかった。
やがて、寝ぼけたネズミがぼくの顔を胸に押しつけてきて、息が苦しくて半ば意識を失うように眠りに落ちた。
そして目が覚めると、ネズミの姿は消えていた。
「忙しいもんな…仕方ない」
小さく溜め息を吐く。
今、ぼくは犬洗いの仕事中だ。
ぼくの呟きに、犬が耳をピクリと動かした。
栗色の毛の大きな雄犬だ。
軽く爪を立てて体を擦ってやると、気持ちよさそうに目をトロンとさせる。
「おい、紫苑」
「いたっ」
頭にゲンコツが降ってきた。
見上げると、イヌカシが腕を組んで立っていた。
「何するんだよ」
「何するんだよ、じゃない。さっきから、しょっちゅう手が止まってるぞ。そんな調子じゃ日が暮れちまう」
「え…ぼく、手が止まってた?」
「止まっては動き、止まっては動き…何ぼーっとしてんだよ」
「い、いや、べつに…」
言えるわけがない。
今日がぼくの誕生日で、更にはぼくとネズミの記念日であるにも関わらず、朝からネズミに会えていないなどと、そしてそれが原因で物思いに耽っていたなどと、恥ずかしくて言えない。
「仕事の手を抜いた罰だ。大型犬だけじゃなくて小型犬も全部洗え」
「え…えぇ!?それこそ日が暮れちゃうじゃないか」
一刻も早く帰ってネズミに会いたいのに、と喉まで出かかった言葉を飲み込む。
「おまえさんが悪いんだ。仕事を甘く見てちゃ痛い目に遭うってことをきっちり教えてやる」
イヌカシは雇い主だ。
ぼくはイヌカシから給金を貰って働いている。
だから、仕事のことで反論はできない。
特に今回は完全に、ぼーっとしていたぼくが悪いのだ。
「分かった」
こうなった以上、早く終わらせてしまうしかない。
ぼくは今洗っていた犬に、思いっきり水をかけた。
─・─・─・─・─
最後の犬を洗い終えたときには、もう辺りは燃えるような紅の空に包まれていた。
ぼくは伸びをして、帰る支度に取りかかった。
「紫苑、ちょっと」
イヌカシに呼ばれ、嫌な予感がした。
「悪いんだけどさ、犬たちに飯やってくれない?ヤボ用思い出しちゃって」
溜め息が出た。
何故今日に限ってこんなに仕事が長引くのだろう。
「いや、ほんと悪い。はい、これ。今日の給金」
イヌカシがぼくの手に銀貨を4枚握らせた。
いつもより多い。
だが、今のぼくにはお金よりも、早く帰りたい気持ちが勝っていた。
「飯食わせたら帰っていいから。頼んだぜ、じゃ」
イヌカシが慌ただしく出て行った。
ぼくは早急に、犬たちの夕食の準備に取りかかった。
成犬には肉を与えればいいが、子犬たちはそうはいかない。
食べやすいようにすり潰してやらなくてはならないのだ。