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□旅のはじまり
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その女の子はからっぽだった。

自分でもそうだと思っていたし、女の子を知る者たちも口をそろえてそう言った。

からっぽの女の子には弟がいた。

二人はとても仲の良い姉弟で、同じ家に住み、おそろいのマグカップで紅茶を飲むのが好きだった。

弟はいっぱいだった。

弟自身そうだと言っていたし、女の子も自分の弟はいっぱいだと思っていた。

そんな弟が女の子の自慢だった。女の子はからっぽだったけれど、いっぱいの弟を愛していた。

その日女の子が愛用のマグカップで、一人紅茶を飲んでいると、玄関のあたりが急にもやもやしはじめた。女の子は不思議に思ったが、なにぶんからっぽなので黙っていた。

もやもやが自分のあたりまで進んできて、ようやく女の子は立ちあがった。もやもやはよく見れば黒い霧のようなもので、女の子はこんなもやもやを見たのは初めてだと思った。

「もやもやしたあなたはいったい何ですか?」

女の子は礼儀正しかったので、得体のしれないもやもやにも丁寧に訪ねた。

「俺は『なんでもないもの』だ。お前の中身を奪いに来た」

もやもや――『なんでもないもの』――は、ぶっきらぼうに答えた。そして女の子のほうへ、ずずっと進んでくる。ところが女の子は申し訳なさそうに眉を下げた。

「『なんでもないもの』さん、申し訳ありませんが私は『からっぽ』です。私のところへ来たのは無駄でしたね。ごめんなさい」

からっぽと聞いて、『なんでもないもの』はぴたりと動きをとめ、そして大きな溜め息をひとつ、ついた。からっぽな女の子なんて、『なんでもないもの』にとっていらないものでしかなかった。

「お前、『からっぽ』なのか。そうか。あーあ、時間を無駄にした」

そこまで言ってなにか思いついたのか、『なんでもないもの』は口をへの字にまげた、ようにみえた。

「待てよ、お前、自分を守るためのウソじゃないだろうな」

「ウソではありません。目を見てわかりませんか?」

言われて、『なんでもないもの』はじっと女の子の目を見つめた。見れば見るほど、女の子はからっぽだった。

「ちぇ。本当に『からっぽ』か。確かにおいしそうな中身の匂いがしたのにな」

「それは、弟の匂いでしょう。弟は『いっぱい』でしたから」

女の子の言葉を聞いたとたん、『なんでもないもの』はゆらゆらっと体を揺らした。『からっぽ』の女の子に、『いっぱい』の弟がいたなんて! 『なんでもないもの』の目は欲で輝いた。

「で、弟はどこにいるんだ?」

聞かれて、女の子は悲しそうに顔を伏せた。『なんでもないもの』はいらいらと女の子の答えを待った。

「弟は、ずっと帰ってきていません。どこへ行ったのか、いつ帰ってくるのか私にはわからないのです」

『なんでもないもの』はひどくがっかりした。しかし何か思いついたのか、急に口を開いた。

「おい、お前弟が心配か?」

「ええ。それは。私は弟を愛していましたから」 

『なんでもないもの』はにやにやして、それから優しげな声をだそうと努めた。

「なら、俺と一緒に、弟を探しに行かないか?」

「本当ですか? ぜひお願いします。でもあなたにそんな迷惑をかけるわけには……」

「いやいや、俺はやさしいからな。お前も弟が行方不明でさぞ心配だったろう」

女の子は感激した。それを見て『なんでもないもの』はしめしめ、とほくそ笑んだ。弟を見つけたら、その場で喰ってやろうというのが『なんでもないもの』の企みだった。

女の子はからっぽだったから、『なんでもないもの』に騙されていることに気がつかない。あわててとりあえず要るものだけつかむと、女の子は外へ飛び出した。

こうして『からっぽ』の女の子と『なんでもないもの』の旅は始まった。


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