歪んだ愛に溺れて

□仮面か素顔か
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まるで、沼にでも全身が浸かっているような感覚だ。
体が重くて、自分でもなかなか動かせない。意識も朦朧としていて、何も考える気にならなかった。

「……名前……」

近くで、私を呼ぶ声が聞こえた。

「名前……」

次はさっきよりもはっきりと。
重い瞼を開けると、ぼやけた視界に白い天井が映った。

「名前、大丈夫か?」

声のする方を見ようと頭を動かすと、視界の隅には色素を失った金色の髪。

そこでようやく、意識が覚醒した。

クリアになった視界に、静雄の姿がはっきりと映る。

「しず、お……?」

「起きたか、名前」

大きな手で、頭を撫でられる。
ゆっくりと体を起こすと、そこは見たことのない部屋だった。
クリーム色の壁と二つのドア。白いクローゼットに、中世のヨーロッパの城にでもありそうな白い鏡台。
どれも新品のように綺麗で、今私が寝ているセミダブルのベッドも新しそうだ。
鏡台の前のイスはベッドの横に運ばれていて、今は静雄が座っている。

「なに、ここ……」

「いいだろ、この部屋。名前の為に俺が選んだんだ」

「は?」

静雄は柔らかな笑みを浮かべると、私の背中に腕を回した。
静雄の匂いと煙草の香りが混じった懐かしい匂いに、体が包まれる。

「これからは、ずっと一緒だ」

「……なんで……」

次々と記憶が甦ってくる。
静雄に呼び出され、マンションのエントランスに向かったこと。そして、外に出た途端に背後から口と鼻に布を押し当てられたこと。
そこから記憶がないことを考えると、何か薬品を吸わされたのだろう。

「どうしてこんなことしたの?」

「決まってんだろ。お前が好きだからだ」

「へえ。で、ここどこ?」

「幽が持ってるマンションだ。他に入居者はいねぇから、好きに使っていいんだとよ」

――ということは、まだ都心にいるということか……。

まさか静雄がこんなことをするとは思っていなかった。
気付かれないよう左手の指輪を外しながら、静雄の肩越しに、ちょうどベッドの足先の方にあるベランダの外を見る。
周りにあるビルの上方しか見えないことから、マンションの最上階近くに位置していることが解った。

「静雄、これからどうするつもり?」

そう尋ねると、静雄は私から離れた。

「暫くはここで暮らす。その後は、まあ、まだ考えてねぇ」

「こんな都会の中心で、臨也に見つからないとでも思ってんの?ここに来るまでに、どれくらいの人間に見られてるか解ってる?」

臨也の名前を出すと一瞬表情に陰ができたが、すぐに元に戻った。

「確かにすぐにバレるだろうな。けど、ここまで辿りつけなきゃ意味がねえ。俺が簡単に名前を渡すわけねえだろ?」

何年も一緒にいて、初めて感じる違和感。
鳶色の瞳は澱んでいて、私しか映っていなかった。

静雄だけは他の男とは違うと思っていたが、どうやら大きな誤算があったようだ。
依存と独占欲に支配されてひたすらに渇望する、人間の最も醜い感情。
結局のところ、静雄も変わってしまったのだ。

「好きだ、名前。愛してる」

私はそれでも、拒むことはできない。
右手で指輪を握り締めながら、唇に感じる温もりを受理した。
私がキスを拒まなかったことが嬉しかったのか、静雄は出会った頃から変わらない照れたような笑みを浮かべた。

「腹減っただろ?」

立ち上がった静雄が、二つのドアのうち、ベッドが寄せられている壁とは反対側にあるドアに向かった。
ドアが閉まった後に聞こえたカチャリという音に、鍵を締められたのだと理解する。

ベッドから降りて裸足のまま立ち上がった。
ベッドのサイドテーブルの横にあるドアに近付き、丸いドアノブを回す。
中は洗面所になっていて、更に二つのドアがあった。片方はトイレ、もう片方は風呂に続いている。

「出られなくても生活はできるか」

自分に言い聞かせるように呟き、ベッドに戻る。
臨也は閉じ込めるようなことはしなかった。だからこんなことになってしまった。
失敗から得た教訓、というところだろう。
指輪を掌の上で転がし、枕の下に隠した。

「私が元凶とは言え、後払いにしてはちょっと高すぎるよねえ……」

一人の時間が長くなったせいか、臨也の一人言の癖が移ってしまったようだ。


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