夜に綴る物語
□何度喧嘩しようがじいさんばあさんになった時に笑っていられるなら幸せってもんだ
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それは、一瞬だった。
冗談じゃなくて、本当に一瞬だった。瞬きを1回するうちに名前が目前まで迫っていて、防御する暇もなく派手に蹴られた。
背中まで貫通したんじゃないかっていうくらいの衝撃が走って、周囲から音が消え体が後ろに引っ張られたような錯覚がしたと思えば、土手にめり込んでいた。水を吸ってまとわりつく土と濡れた草が気持ち悪い。だが、雨のお陰で土煙が上がることはなく、再び攻撃をしかけてくる名前が見えて、なんとか2発目は回避することができた。
「アハ、これは結構きついよ、名前」
体だけじゃなくて、精神的にもダメージがある。
一旦距離をとり、普段戦闘時にはほとんど使わない頭を働かせる。怪我を最小限に抑えながら拘束するには、どうすればいいだろう。まずは近付かなければいけないが、今の状態の名前に近付くのは難しい。
さっき俺が埋まっていた場所に突っ込んでいった名前は、赤い装束と手足を土で汚していた。気持ち悪そうに手を見下ろしている。
その隙に、傘を引き抜いて開いた。名前が再びこっちに突進してくる前に、傘を盾にして此方から仕掛けた。名前はすぐに反応したが、受身をとるのが精一杯だったようで、そのまま穴を更に深く掘るように背中から土手にめり込んだ。
互いに力を掛け合って、傘と胸の前で交差させている名前の腕が小刻みに震える。相変わらず、その目は虚ろだ。
「ねえ名前、聞こえる?」
やはり返事はない。
更に踏ん張って力を加えると、座り込むような形で名前が膝を曲げた。上から押さえているような状態にはなっているが、少しでも気を抜いたらまた吹っ飛ばされそうだ。
さて、ここからどうしようか、と考えだしたところで、名前の口がまた小さく動いた。
「なに?なんて言ったの?」
「……や……た……ない……」
絞り出されるように微かに聞こえる声は、雨の音にかき消されて断片的な言葉しか聞き取れない。
「……ぃや……た……かい……く……なぃ……」
『嫌だ、戦いたくない』
名前は、きっとこう言っているんだ。
制御はできていなくても、名前の意識はまだちゃんと残っている。
「うん、分かってるよ」
熾鬼の欠点。
一族を滅ぼすまでに至った大き過ぎる力。
すべての元凶。
それでも、まだ名前は生きている。名前の意思だって生きている。
それで充分だ。
「戻ってきてヨ、名前」
雨が一層強くなってきた。
まずい、と思った時には、もう遅かった。
名前が体を横に捻り、滑るように傘が前に進む。自分が入れていた力によって、体が前のめりになった。
砕けるような音とともに、脇腹に焼けるような痛みが走る。体内に何かが入ってきたような感覚に視線を落とすと、名前の腕が傘を貫いて左の脇腹に刺さっていた。
逆方向に加わる力によって、今度は後ろに弾かれる。抉るように名前の手首が抜け、派手に河原を背中で滑った。
ああ、死ぬかもしれない、とこっちに向かってくる名前を見て思った。我ながら呆気ない終わり方だ。
なんて感傷的になっていると、名前の背後に複数の影が見えた。
「ていヤァァァァァア!!」
「うおォォォォオ!!」
雨の音よりも強い咆哮が、辺りに響き渡った。
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