宵闇に隠れし君の心

□成
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『嫌ぁねえ……鬼の子ですって。穢らわしい……』

何百年も前に投げかけられた言葉が、記憶の底から甦ってくる。
高天原には、もう、戻りたくない。
それなのに、母から送られてきたのは結婚話だった。
なんと、私には許嫁がいたというのだ。私が地獄に来る直前に、母親が結んだのだという。いつか私を高天原に連れ戻す為に出した策だったのだ。
いつまで一人でふらふらとしているのか、と手紙には説教じみた言葉が並んでいた。女は結婚して子を成し家を守るべきだ、なんていう古い考えをまだ持っているなんて呆れてしまう。
結婚も子供を持つことも、自分には関係のないことだと思って生きてきた。否、白澤と関係を持ち始めた時に、その考えは捨て去った。
それなのに、今になって結婚話が出てくることになるなんて、思ってもみなかった。
あの温室育ちの母親のことだ。私が男と遊んでいるなんて知ったら卒倒するだろう。
相手は由緒正しき家の次男坊。家を継ぐ必要もないから私みたいな女が相手でも承諾したのかもしれない。
なんだか他人事のように思えて笑えてきた。
父親にも電話で伝えたのだが、すまないと謝られるだけだった。知らなかったのは私だけということだ。
これが笑わずにいられようか。

「おじさーん、もう一杯!」

「いい加減になさい。何杯目ですか」

生ビールを注文しようとしたら、鬼灯様に止められた。
呆れたように溜息をつき、あと一杯だけですよと諭される。なんだかんだ言ってこの人は優しい。

「酔えないって、こういう時不便ですよね。自棄酒の効果がありません」

「だからと言って飲み続けるのはどうかと思いますが?」

枡の中身をあおりながら、鬼灯様が言った。

「まあ、気持ちはお察しします。いきなり結婚しろと言われたら誰でも驚きますよ」

鬼灯様は枡を置き、私の方を向いて頬杖をついた。

「しかし、第二補佐官に消えられては困りますね」

「私だって辞めたくないですよ」

そこで、注文していた新しいビールのジョッキが運ばれてきた。
一口飲み、白い泡を見下ろす。

「ちゃんと数えてなかったんですけど、今年で私が地獄に来てちょうど千年経つそうです。それが期限だと、母が父に言っていたらしくて」

「もうそんなに経つんですか……。初めて会った時はまだこんなに小さかったのに」

「いや、そこまで小さくないです鬼灯様」

畳から30cmあたりに手をかざした鬼灯様にツッコむ。鬼灯様は特に気にした様子もなく、そうですかと言った。

「でも、懐かしいですね。平安時代でしたか」

「はい」

父親が鬼灯様の幼馴染みで、まだ父が結婚していない頃よく鬼灯様に預けられていた。それが、今では部下だ。私も出世したものだ。
ここだけの話、鬼灯様は私の初恋の相手でもある。大きくなったらお嫁さんにしてくださいと言っていた時期もあった。

「大きくなったら私の嫁になるという話はどこへ行ったんですか?」

「とうとう心まで読めるようになったんですか?」

「はい?」

「いえ、なんでもありません」

いや、待て。鬼灯様との結婚ならありかもしれない。

「鬼灯様、その話はまだ有効ですか?」

「父親と同じ年齢の男が結婚相手でいいんですか?」

「現世では、父親より年上と結婚した有名人もいますよ」

「ああ、いましたね、そんな人も」

鬼灯様は、すべてを見透かすような瞳でじっと私を見つめた。

「……あいつのことが気がかりなんですか?」

あいつというのは、白澤のことだろう。
一番の理由にないにせよ、白澤のことが引っかかっているのは事実だ。
私が黙っていると、鬼灯様が溜息をついた。

「だからあまり関わるなと言ったのです。貴女のような女性なら引く手数多でしょう。よりにもよって何故あの偶蹄類なんですか」

「それは、私にも分かりません」

気が付けば好きになっていた。流れで一度肉体関係になれば、その後は転がるように今のような関係になっていったという感じだ。

「私は他人の色恋には干渉しませんが、これだけは別です。あの男だけはやめておけと何度も言ったでしょう」

久しぶりに出た、鬼灯様のお母さん節。
これを聞くことができるのも、あと暫くの間だと思ったら感慨深くなる。
ジョッキについた水滴を指先で繋げながら、鬼灯様から目を逸らした。

「別に私達は付き合ってるわけじゃありません。遊び、なんですよ。いつでも縁を切ることはできます」

暇潰し、欲の捌け口、都合のいい相手。いくらでもこの関係には名前が付けられる。
そして、終わらせることも容易だ。

「結婚の話は既に決まっていることで、準備も進んでいるそうです。もう逃げることもできません。昔の日本もそうだったように」

最初から、叶わぬ恋だと分かっていた。
それでもつらいのは、死ぬことがないからだ。
この感情を抱いたまま、気の遠くなるような長い時間を別の男と過ごさなくてはならない。

『貴方を殺して私も死ぬわ』

昔読んだ現世の小説に出てきた台詞が、ふと頭に浮かんだ。
二人で死を選び愛を貫くことができる人間が、今の私には羨ましかった。

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