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□これも一つの愛ならば
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自分でも馬鹿なことをしている自覚はある。自傷行為というより、一種の自慰行為かもしれない。
袖をまくり、左の上腕に自分の爪を突き立てる。力を加減しながら、皮膚を削り取るように爪を引いた。皮膚と肉が削れて血が少し出たが、すぐに傷は塞がった。しかし、傷は治ってもタトゥーは戻らない。
顔を上げると鏡の向こうの自分は、薄く笑っていた。気持ち悪い男に好かれてなまえさんもかわいそうだな、と他人事のように思った。
手と腕を洗い、すぐになまえさんの店へ向かった。同じ4区内にあるのに、理由がないと会いに行けないことが、どうしようもなく息苦しい。
雑居ビルの地下にある店を訪ねると、ちょうどすれ違いで客らしき男が出てきた。薄暗い店内は、雰囲気に反して女性らしい柔らかな匂いが漂っていた。

「あれ、ウタだ」

カウンターの向こうで、なまえさんはデザイン画をファイルに綴じていた。

「こんばんは」

「いらっしゃいませ。また怪我でもしたの?」

見透かしたように、なまえさんが先に言った。

「うん。ちょっと消えちゃった」

「じゃあ直すから、奥行って準備して」

「はーい」

カウンターを通り過ぎて施術室に入り、バッグとサングラスを置いて上着を脱ぐ。袖を捲りかけ、ふと考え直してシャツも脱いだ。服を畳みながら、自分の変態ぶりに嘲笑する。
肘掛けがついた椅子に座って待っていると、髪を束ねながらなまえさんが入ってきた。
なまえさんは、隠すように置かれている喰種用の器具を棚から取り出し、インクと消毒液をトレイに乗せた。本棚から顧客一人一人のデザイン画が入っているファイルを取り出し、ぼくの名前が書かれている紙の束を出す。

「さてと、今日はどこですか?」

お医者さんごっこをするように言ったなまえさんに、左腕を見せる。

「ここ」

「あーあ、ほんとだ」

確かめるように、なまえさんの指先が肌色になってしまった部分を撫でた。そこで、いつも右手の薬指についている指輪がないことに気付いた。

「なまえさん、指輪は?」

手を洗いに立ち上がったなまえさんの背中に問いかける。

「ああ、ちょっと前にね、別れたんだ」

背中を向けたまま、なまえさんは淡々と答えた。

「もう惰性で付き合ってたようなもんだったから、すっきりした」

体が内側から熱くなってきた。風船みたいに期待が膨らんでいって、胸いっぱいに広がる。

「では、始めます」

ゴム手袋をはめたなまえさんが、左隣に座る。消毒液が肌に吹き付けられ、その冷たさに我に返った。
針が動く機械音とチクチクとした懐かしい痛みが、平常心を保たせてくれる。それでも、真剣な眼差しで彫っていくなまえさんを見ていると、なんとも言えない幸福感に包まれた。毎回毎回、この時間がずっと続けばいいのにと願ってしまう。
しかし、今日は一筋しか傷をつけていなかったせいで、終わりはすぐに見えてきた。願いも虚しく、最後の線の上を針が走る。インクが拭き取られると、すっかり元通りになった肌が現れた。
張り詰めていた空気がほどけ、なまえさんが深く息を吐いた。

「お疲れ様でした」

マスクとゴム手袋を外したなまえさんは、ふと思い立ったように、ぼくの左胸のタトゥーを指でなぞった。

「やっぱり、師匠にはまだまだ敵わないな」

「……いつでも練習台になるよ」

本気でそう言ったのに、なまえさんは冗談だと思ったのか声を出して笑った。

「これ以上増やしてどうするの」

笑いながら器具を片付けるなまえさんの背中に、冗談じゃないよと縋るように言った。

「背中も足も、まだいっぱい空いてるから」

「ありがと。気持ちだけいただいとくわ」

綺麗な黒髪がほどかれて、揺れながらなまえさんの背中に広がった。トリートメントの甘い香りが、離れていても漂ってくる。
もう彼女は誰のものでもないということを思い出し、ずっと言い出せずにいたことを言葉にした。

「ぼくはもっと、なまえさんに彫ってもらいたい」

ゴミ箱の蓋が、渇いた音をたてて閉まった。なまえさんは何も言わず、出していたデザイン画をファイルに入れる。
脈なしかと落胆し、大人しく籠の中から服を取った。

「だから自分で自分を傷つけるような真似するの?」

袖に腕を通すのと同時に、静かな部屋の中になまえさんの凛とした声が響いた。一瞬何を言われているのか分からなかったが、数秒経ったところでようやく腕のことだと気付いた。

「バレちゃった?」

気にしていない風を装うと、ファイルを本棚に戻したなまえさんがこっちを向いた。しかし、近付いてこようとはしない。

「分からないわけないでしょ。怪我との違いくらいすぐに気付くよ。最初は怪我に似せてたみたいだけど、最近は全然そうは見えなかった」

「……そうだよね」

ただ爪で抉っただけでは、意図的にやったことだと丸わかりだ。それでもなまえさんは、今まで気付かない振りをしていたのだろう。
椅子に座り直し、本棚の前に佇むなまえさんと向かい合った。

「ぼく、ずっとなまえさんのことが好きだった」

「うん……なんとなくそんな気がしてた」

なまえさんはゴールドの三角がついたヘアゴムを手首から外し、伸ばしたり捻ったり弄び始めた。

「時々ね、ふと思い出すんだ。自分がしてることは犯罪なんだって。師匠には散々言われてきたのに、人間も喰種も接してたら違いが分からなくて……どこかで線引きしなきゃいけないのに……近づきすぎたみたい」

なまえさんの手の中で、三角がくるくると回る。

「ウタの嘘に気付いたって知られたらもう会えなくなると思って、気付いてないフリしちゃった」

なまえさんの悲しそうな表情を、初めて見た。
手の甲の模様を見下ろし、初めてなまえさんに彫ってもらった日のことを思い出す。あの時は、本当に怪我だった。師匠と同じようにできるかな、と緊張気味に小さな手が触れたことも、終わった後の満足気な笑顔も、鮮明に覚えている。
他の客に混ざって、なまえさんの記憶の中に埋もれていくことが怖い。特別になりたいと思い始めたのは、いつからだっただろうか。

「もう遅いよ。なまえさんはぼくのことを知りすぎたし、ぼくはなまえさんのこと諦められなくなっちゃった」

椅子から立ち上がると、なまえさんは両手を握り締めて一歩後ろへさがった。

「なまえさんはぼく達の世界に立ち入りすぎたから、どっちみち放ってはおけない。だからさ、どうせならもっと悪いことしよ?」

なんだか脅しているような気分だ。恐怖で支配したいわけではないが、かと言って今の言葉が嘘というわけではない。なまえさんがCCGに密告するような真似をするとは思えないが、どこから情報が漏れてしまうか分からない。
なまえさんの目の前まで近づき、指先が白くなるほど握り締められている手をとった。指を開かせると、掌にくっきりと爪の跡が残っていた。

「なまえさんもさっき言ってたでしょ。人間も喰種も、そんなに変わらないよ。そんなこと関係なく、ぼくはなまえさんが好き」

早く堕ちて、と心の中で呟いた。
口では綺麗なことを言っているが、本心はなまえさんを同じ場所まで引き摺り落として穢してしまいたい。
なまえさんが顔を上げ、赤く彩られた唇が躊躇いがちに開かれた。

「私、も……」

そこまで口に出したが、その先がなかなか出てこない。
あと一押しするにはどうすればいいだろうと考え、結果、腰に腕を回して引き寄せた。きつく結ばれている唇に、強引に自分の唇を押し付ける。なまえさんの体中の筋肉が強ばって、手が宙に浮いたまま止まった。それをいいことになまえさんの体を抱き上げ、先程まで座っていた椅子の隣にある施術台の上に乗せた。なまえさんの膝の間に体を割り入れ、退路を断つ。
何が起こったのか分からないという顔をしている彼女の髪を撫で、綺麗な黒い瞳を覗き込んだ。

「怖いことなんて何もないよ。なまえさんのことも、このお店のことも、ぼくが守ってあげる。絶対に、CCGにも警察にも他の喰種にも、手出しはさせない」

ゆっくりと顔を近付けていっても、なまえさんは抵抗する素振りを見せなかった。まだ触れるだけの啄むようなキスしかしていないのに、腰の辺りがじわりと疼き始める。いい年齢をして情けない。
台に手をついて重心を前に傾けると、しがみつくように温かい指先が首筋に触れた。体から無駄な力が抜けたところで、唇を割り開き口内に侵入する。鼻に抜けていくような初めて聞く甘い声に、脳が痺れていくような感覚に襲われた。
一度唇を離すと、呼吸がつらかったのか、なまえさんは下を向いて何度か咳き込んだ。

「ごめん、我慢できなくて」

背中を摩って、なまえさんの呼吸が整うまで待つ。俯いてはいるが、なまえさんの手はぼくの肩に置かれたままだった。

「大丈夫?」

「うん……」

ようやく顔を上げたなまえさんの目は、熱がこもったように潤んでいた。流れを途絶えさせないように、彼女の耳元に唇を寄せる。

「今夜は一緒にいたいな」

内緒話をするように囁くと、ゆっくりとなまえさんが頷いた。
やっと手に入れたという確信に喜びを抑えきれず、口角が上がる。誤魔化すように抱き締めながら、ぼくなしでは生きられないようにするためにはどうすればいいだろうかと、次の一手を考えた。


2017.01.06
 

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