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□帰巣
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愛らしい声で鳴いていた仔猫の声が止んだ。
私と仔猫を覆う影と、仔猫が見つめる私の背後。
待つことさえ忘れかけた頃に、それは突然やって来る。

「今夜は冷えるねえ」

背を向けたまま口を開くと、私の手をすり抜けて仔猫が逃げていってしまった。

「しかし、今宵の月は見事ですぜ」

静かな声がした。
雲で隠れていた月が顔を出したのか、影が濃くなる。
立ち上がって振り向けば、夢の中でしか会うことのできなかった人が、確かにそこにいた。

「今回は随分と遅いお帰りね」

「いろいろと、あったんでね」

「そう。……さ、入って」

店の入口から、薬売りを招き入れた。
この家を彼が出たのは、まだ桜が咲いている頃だったか。今はもう、中秋の名月と呼ばれる月が出る季節だ。
戸を閉めて店の座敷に上がり、住居としている奥の部屋に続く襖を開けた。
後から入ってきた彼は背負っていた薬箱を下ろし、頭巾を外しながら部屋を見渡した。

「何か、変わったことは?」

「特には。店の方もお陰様で順調」

土間に降りると、外に出る前に火にかけていた水が、ちょうどいい具合に沸き始めていた。茶葉を入れた急須に湯を注ぎ入れ、湯呑二つと盆に乗せ居間に戻る。
年に数回しか帰ってこない彼がいると、普段見ている景色でも違って見える。一人では少々広いこの家も、彼がいるとちょうどいい広さに感じた。
卓袱台に盆を置き、隣の部屋から衣紋掛けを取ってきた。彼が脱いだ帯と着物を受け取り、皺にならないように掛ける。
再び隣の部屋に行き衣紋掛けを吊るして戻ってくると、彼は細い箱を手にしていた。

「……これは?」

中には、一本の簪が入っている。
箪笥の上に置いたままだったことを思い出した。
あまり髪を結い上げることのない私が簪を必要としないということを、彼はよく知っている。

「昨日、呉服屋の息子が持ってきてね。断りきれなくて受け取ってしまったのよ」

「旦那がいると、言わなかったんですかい?」

「その旦那がまったく帰ってこないもんでね」

「それで若い男に乗り換えると……」

「旦那の方も外に妾をつくっているかもしれないので」

「……そんなもの、いやしませんよ」

「分かってます」

なんだか笑えてきた。
このような意味のない会話ができることさえ、私にとっては幸せなことなのだ。

「安心してちょうだいな。最初から使う気などないんだから」

私にはこれがあるから、と胸元で揺れる自分の髪の束を掬う。彼の耳元で揺れる物と同じ、蒼い髪飾り。

「なら、目を瞑るとしよう」

彼は箱に蓋をすると、箪笥の上に置いた。
一件落着したところで、彼を座らせ用意していたお茶を淹れた。彼が一服している間に、襖の前に置かれていた薬箱の中を確認する。
店の棚から足りない薬を持って来て、ついでに先日手に入った珍しい漢方薬も入れておいた。

「何も、今しなくても」

「忘れないうちにしておかないと」

あれも入れておこう、これも入れておこうと頭では考えていても、彼と過ごしているとつい忘れてしまうのだ。彼が出発した後になって、あの薬を入れ忘れていたと思い出してしまう。
ついでに天秤が入っている引き出しを開けると、待ち構えていたかのように飛び出してきた。指先に乗せると、頭を下げるかのように前に傾いた。

「懐かれてるねえ」

湯呑を持ったまま、彼がふっと笑った。
指先を軽く押し上げるようにすると、天秤は浮き上がり彼の方に飛んで行った。彼も指先に天秤を乗せ、同じように返してくる。
天秤を引き出しに戻し、立ち上がって庭の方を見た。開け放している縁側の向こうにある堀に、月が映って揺らいでいる。

「月見でもしましょうか」

私がそう言うと、彼も縁側の方を見た。

「そいつぁいい」

もらっても一人ではなかなか飲まずに置いていた酒を、久々に出した。徳利と猪口を持って縁側に向かう
先に縁側に座っていた彼の隣に座り、猪口を渡した。

「もうすぐ、紅葉も色付き始めそうだ」

彼の視線の先には、庭に植えてある紅葉の木。まだ葉は青々としているが、そのうち燃えるような緋色になるだろう。
自分の猪口にも酒を注ぎ、月を見上げた。

「……そろそろ、ここを離れようかと思っているんだけど」

「……ここに来て、何年になる」

十二年、と答え酒を一口飲む。
十二年間この場所で薬屋を続けた。ここは気に入っているが、流石に一箇所に長く留まり続けることはできない。十二年経っても姿かたちがまったく変わらない女は、普通の人間からしたら異様だ。

「十二年……確かに、そろそろ怪しまれる頃合か」

「出会った頃は子供だった子が、今では立派な大人。薬屋は変わらないですねって言われたわ」

「それはそれは……放っておいたら、呉服屋の息子のような輩が増えそうで心配だ」

「あら、もしかして、根に持ってる?」

おもしろ半分で尋ねたら、彼は黙ってしまった。
ほとんど帰ってこないくせに、こういうことには目敏い。
いや、寧ろ、たまにしか顔を合わせないからこそ長続きしているのかもしれない。

「次はどこに行きましょうか」

彼に凭れかかり、彼の肩に頭を乗せた。

「あんたの好きなところに、店をかまえればいい」

「そうねえ……」

彼が帰ってきやすいように、店を出すのは比較的大きい街にするようにしている。江戸もいいが、次は京にでも行ってみようか。桜も紅葉も、きっと綺麗だろう。店の仕入れもしやすい筈だ。
彼が持っている猪口の水面に映る月を眺めていると、不意に膝の上に置いていた手に彼の手が重なった。

「どこにいようと、私が帰る場所は、あんたのいる場所だからね」

「……ええ」

まだまだ、私達の先は長い。




2014.09.22
 

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