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□心は脳に存在するか否か
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古来より、人々は心が心臓に存在すると考えていた。科学の進歩により、心臓は血液を送り出すただのポンプだと分かった。心と揶揄される感情は、すべて脳で作り出されているものだ。それでも、心は心臓にあるという考えは言語表現の文化の中に深く根付いている。
それならば、愛はどうして生まれるのか。
気に入った異性を前にして、あらゆるホルモンや神経伝達物質が分泌され、身体に変化が起こる。人々は、その変化を感じ取り、愛があると認識する。
生物は遺伝子の乗り物だ、と誰かが言っていた。
所詮理性と高度な文明を手に入れたとしても、人間とて動物であり、最も優先すべきことは遺伝子を残すことなのだ。そこために男と女は存在する。何かと理由をつけたがるという特徴を持つ脳は、愛という理由をつけるのだ。
そして、騙されやすい脳は、自分自身をも騙す。
愛に理屈などない、と。

「君はもう少し、詩や物語を読んだ方がいい。知識も大切だが、そんなものばかり読んでいると頭が堅くなる」

手の中から、本が消えた。
振り向けば、ソファの後ろに聖護が立っていた。
いつの間に帰っていたのだろう。
ベストにネクタイ、スラックスという格好はまさに槙島先生と呼ばれるに相応しい。

「おかえり。学園の方はもういいの?」

「ああ、切り上げてきた」

ネクタイを緩めながら、聖護はソファの前に回り隣に座った。
私が読んでいた生物学の本をテーブルに置き、その手で私の頬から顎を撫でる。

「なんだか、随分と久しぶりな気がするよ。何も変わったことはなかった?」

「特には。ただ、声を出すのが久しぶりだから、喉が変な感じ」

正直に答えると、聖護は笑って口付けてきた。ひんやりとした指先とは違い、唇は温かい。
離れていた時間を取り戻すように、何度も何度も唇が重ねられる。親鳥に餌を与えられる雛にでもなった気分だ。
ようやく解放されたかと思えば、背中に腕が回され額と額がくっついた。
照明に照らされた銀色の前髪越しに、金色の瞳が光る。

「こうしていると、まるで夜を覗いているみたいだ」

彼の目には、私の目はそんな風に映っているのか。私の黒い目に彼の瞳が映って、月のように見えるのかもしれない。

「詩や物語を読めば、私もそんな台詞が言えるようになる?」

「さあ、どうだろう。同じ文を読んだとしても、感じ方は人それぞれだからね。君は僕のようなタイプじゃないだろう?」

「まあね」

たとえ聖護と同じものを読んだところで、私はロマンチックなことを言えるような性格ではない。
聖護は柔らかく微笑むと、私の唇を指でなぞった。

「僕達は、きっと何もかもが正反対だから惹かれあったんだろうね。互いに持っていないものを埋めるように、補い合って……」

聖護はそこで言葉を切ると、いや、と首を横に振った。

「駄目だ、言葉にしたら安っぽく聞こえてしまう」

「……言いたいことは分かったから大丈夫」

今度は、私から唇を重ねた。


もし、この日この瞬間に戻ることができるのなら、どんなことでもしてみせよう。
もう何日も声を出していない。
喉が圧迫されているように苦しい。
この目で見たわけではないのに、分かってしまった。
もう、槙島聖護という人間はこの世にはいない、と。
子供のように愉しそうに家を出た彼は、もう戻ってはこない。
言えばよかった。私も連れて行ってと。待っててと言った彼を、無理にでも押し切ればよかった。
いくら待とうとも戻ってこない人を待つくらいなら、共に終わりを迎えたかった。
読みかけのまま、栞が挟まれている本の表紙を撫でる。

ああ、胸が痛い。





2014.08.14
 

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