黒き影とともに
□束の間の平穏
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名前と臨也は池袋には戻らず、名前の研究チームが手配したホテルに暫く留まることにした。薬なども、定期的に届けられている。
名前は、寝転んだまま携帯電話を弄っていた臨也の布団を引き剥がした。
「包帯換えるね」
臨也はゆっくりと上体を起こし、着ている黒いシャツを胸まで上げた。
腹部を覆っている包帯が露になる。
名前は慣れた手つきで包帯をほどいていった。
傷の周りの皮膚が赤黒く変色している。
名前は顔をしかめ、消毒効果のある塗り薬をそっと塗り、新しい包帯を巻き直す。
「ねえ名前」
「ん?」
ぐるぐると包帯を巻く名前を見下ろして、臨也はふと呟いた。携帯電話を閉じ、ベッド脇のテーブルに置く。
「ねえ名前」
「ん?」
「名前の子供の頃の話、聞かせてよ」
名前は臨也を寝かせ、ベッドの横の椅子に腰を下ろした。
「調べたんじゃなかったの?」
「それとは別さ。君の思い出が聞きたいんだ。無理に、とは言わないけど」
「そうだなあ……」
名前は遠い日の記憶を思い出しながら、少しずつ語り始めた。
「私は、物心ついた頃には、もう父さんの研究所でほとんどの時間を過ごすようになってた。毎日何時間も勉強したり、難しいパズルやらされたり。でも、不思議と嫌じゃなかった。休みの日には公園に行ったり美術館にも連れて行ってもらったなあ……」
「成程ね。そのおかげで天才少女ができあがったわけだ」
臨也の言葉に笑い、名前は言葉を続けた。
「でも、あの日が来ちゃった……。あの日は、アメリカから日本に帰ってきてすぐで……確か、父さんと母さんと、水族館に行く予定だった。父さんが車を運転してて、母さんは助手席に座ってた。私は、後ろに座ってて……それで……横から大きいトラックが来て……」
「名前……」
無理はしなくていい、と臨也が目で訴える。
しかし、名前は大丈夫だと言う風に笑みを浮かべた。
「気が付いたら手術台の上にいてね、周りで叔父さんや父さんの部下が言い争ってた。まだ使うのは危険だって誰かが言ったけど、叔父さんは周りを押し退けて父さんが作った薬を私に使った。もう何が起きてるか最初は解らなかった。眩しいしうるさいし薬の臭いがキツいし。怪我は治ったけど、五感が鋭くなったせいで慣れるまで大変だったなあ」
自分の手を見下ろし、そして名前は臨也を見た。
「父さんと母さんは病院に運ばれてから手術を受けたんだけど、結局助からなかった。数ヶ月は研究所に留まって検査の繰り返しで、ほとんど誰とも話さなかった。……新羅やセルティと暮らし始めてからは、ましになったんだけど、小学校の頃はずっと一人だった」
記録を調べたんだけでは解らなかった、名前の過去。小さな少女には、あまりにも残酷な過去だった。
「名前」
臨也はベッドから手を延ばし、名前の手に重ねた。
「ごめん」
「いいの。もう昔のことだし、今は友達も……臨也もいるし」
その言葉に、臨也が笑みを浮かべた。
名前は臨也の手をベッドに戻し、布団を掛け直した。
「はい、怪我人は大人しく寝てください」
「ただ寝てるだけなんて暇じゃないか」
「子供みたいなこと言わないでよ」
名前がそう言うと、臨也は何か思いついたように口を歪ませた。
「じゃあさ、添い寝してよ」
「はあ?」
名前が呆れたような声を出す。
臨也はもうすっかりその気のようで、自分の布団を捲った。
「ほら、早く」
名前は仕方なく、重い腰を上げた。
ベッドの反対側から布団に入り、臨也の方を向いて横になる。
「これでいい?」
「ああ」
満足そうに頷き、臨也は名前の手を握り締めて目を閉じた。
その横顔を見つめていた名前も、疲れが溜まっていたせいか眠気に襲われた。
「おやすみ、臨也」
最後にそう呟き、名前も目を閉じた。
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