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□夏
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金魚鉢




茹だるような暑さで目の覚めた俺は、欠伸をしながらリビングへ向かった。
寝ている間に掻いた汗のせいでTシャツが肌に張りついている。
夏休みも残り数日だが、まだ夏は終わりそうにないようだ。

胸の辺りを掴み、軽く引っ張る。
気持ち悪い。先にシャワーを浴びるべきだろうか?
お風呂場のドアが目に入り、俺は廊下を進んでいた足を止める。


「それより、水が必要だな」


喉の渇きを覚え、もう一度歩き出した。
リビングのドアノブに手をかけ、開けてすぐ、このマンションの主である彼を探す。

……いた。

目的の人物は、壁際にある白い棚の前で高い背を曲げ、何かを覗き込んでいた。
上は何も身に着けず、下に灰色のスウェットだけ履いた格好。
均整のとれたその体は、いつ見ても綺麗だと思った。


「夕、何をしている?」


彼の横に立ち、緩く首を傾げて見上げる。
夕の薄い唇は僅かに綻んでいた。


「ああ、起きたのか。金魚に餌をやっていた」


夕は俺を見ないまま応える。
長い指を擦り、緑の小さな粒をパラパラと、鉢へ落とした。

金魚……そういえば、いたな。

陽の光でキラキラと輝くガラス鉢には、数匹の金魚が泳いでいる。
それは一昨日あった祭りで、夕が掬ったものだ。

必死な様子で餌に食らいつく金魚を、何気なく見ていた。
ふっと漏らすような笑い声が聞こえて、隣に視線を向ける。


「可愛いな」


愛しげに細められる瞳。
弧を描く夕の目を見ていたら燃えるように胸が痛んで、据わらせた目で金魚を睨んだ。


「可愛いが、憎らしいな」
「なぜだ?」


夕は少し目を見開いた。


「お前に可愛いと、言って貰えているだろ」
「……何を言っている。たかが金魚に妬くな」


夕は俺の言葉に顔を赤くする。
目線は金魚へ向けたままだ。
涼やかな瞳に見つめられる、金魚が羨ましい。


「お前は中々言ってくれないだろ。俺は可愛くないか?」
「そ、そんな事はない。口には出さないが、いつも思っている」


俺が問えば、慌てたように夕は否定した。
可愛い、という言葉は愛しい、と同じ意味を持っていると思う。
その言葉を口にする時の夕はそんな瞳をしているからだ。
だから、俺は彼に言って欲しいんだ。


「本当か?じゃあ口に出してくれ」
「それは…」


鉢の中の金魚のように、目を泳がせ口籠る。
シャイな夕には難しい事のようだ。

そんな所も愛しいが、少し寂しい。
――ふと、ある考えが頭に浮かんだ。


「そうだ。いい事を思いついたぞ」
「何だ?」
「俺をこの中で飼ってくれ。そうすればお前は、俺に可愛いと言うしかなくなるだろ」


口許を緩めて言えば、夕は耳まで赤くなった。
目を見開き、ちょっと呆れたように俺を見つめる。


「……まったくお前は、本当に可愛いな」


一言呟き、夕は俺を抱き寄せる。
広いその背に腕を回しながら、俺は金魚になる事を諦めた。

金魚になったら、夕に触れなくなるからな。


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