銀魂

□恋心、沈めて
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心配なんだ。傷つくのが目に見えている。いや、遠回りに言うのはよそう。これは嫉妬に似ている。
 だから、もう高杉に関わるのは止めてくれ。


 ──そんなことを口にしていれさえすれば、彼女は自分の言うことを聞いてくれたのだろうか。今となっては遅い自問を繰り返して、桂はしんと静まり返った夜の橋の上、一人星空を仰ぐ。川の水が涼しげに流れていくこの空間で、思い浮かぶのは柳生の一人娘のことばかりであった。

 一体どういう成り行きか、最近の九兵衛は密かに高杉と会っているようだった。否、高杉が一方的に足を運んでいるといった方が正しいか。町で流行の簪やら手鏡やらを毎回買い与えているらしい。彼女に会う時の彼は嘘みたいに優しい顔をしていて、そんな彼に九兵衛も気を許しているようだった。
 それを桂が知ったのはつい先日のことで、急激な焦燥に駆られたあの感覚は今も持続している。高杉が平和的に九兵衛と親睦を深めるとはどうしても思えないのだ。だけどその懸念以上に、九兵衛が奪われてしまうのは嫌だなどという自分本位の思いの方が強かった。たぶん、自分はずっと前から彼女のことを好いていたのだろう。





 『あいつは危険だ。今すぐ会うのを止めた方が良い』


 何も考えずに、そう言った。高杉晋助、知らぬ訳があるまい。あいつは過激派の攘夷志士だ。九兵衛殿に害を為すに決まっている。
 そうやって自分の醜い想いは隠して、もっともらしい理由を並べ立てて、彼女を高杉から引き離そうとした。引き離せると思っていた。

 なのに。


 『余計なお世話だ。彼は僕の友人だぞ。愚弄することは許さん』


 九兵衛はまるで聞く耳を持たず、高杉を擁護した。挙句桂をきっと睨みつけて、言葉少なにその場を立ち去ったのである。桂は呆然とした。両の足が地に縫い付けられたかのように、まるで動けなかった。横を何食わぬ顔で通り過ぎていく者達が皆灰色に見え、その中で唯一色を持つ九兵衛の背は次第に小さくなっていく。そして人ごみに消えるまで、桂は瞬き一つしなかった。

 『は……はは、』

 この歳になって、愚かの極みであると彼は自嘲した。額を押さえて乾いた笑い声を漏らす。もう数年流していない涙は枯れきっていたが、もしまだ涙腺が生きていたならば、彼の世界はぼやけて歪んでいただろう。

 ──高杉は利口だ。寺子屋にいた時だって真面目に教科書を開いていた自分とは違い、彼は気だるげに話を聞いていただけなのに、成績は大して変わらなかった。攘夷の時だって自分は兵法の本やらを読み漁って熱心に勉強したのに、高杉は天賦の才に恵まれていたのか、並外れた統率力で鬼兵隊なんてものまであっさり作り上げてしまった。

 (たぶん俺は、要領が悪いのだ)

 桂は高杉と違って金に余裕がある訳ではない。だが高価な品で彼女を着飾ってあげることができなくとも、他にやり方があっただろう。思えば関わりが欲しいからと妙につっかかってばかりで、それが恋からくるものだとも自覚していなかった。嗚呼、なんて愚かな。その点、高杉ときたらどうだ。積極的に会いに行って、好意を示して──そうだ、自分はいつだって彼に負けている。性格も考え方も何もかもが正反対で、彼が真っ直ぐ道を行く間、自分は逸れて逸れて、進むべき方向を見誤るのだ。






 「……とんだ面してるな、ヅラァ。いい気味だ」

 ふっと目線を声のした方へとずらす。橋の手摺にもたれかかる様にして腕を組み、高杉が笑みを浮かべていた。対照的に、桂は一つため息をつく。お前は相変わらずだなと呟いて。

 ──いつだって彼はそんな余裕の表情で、汗を流し駆ける自分の隣に涼しい顔で並ぶのだ。せめて抜かれぬようにと必死で足を前に出すのに、その努力でようやっと隣を保てる。そんな印象を、幼少の頃より桂は彼に対して抱き続けていた。

 だが、今回はそれを悲観して諦める気にはなれない。

 (俺がいつも黙ったままでいると思うなよ、高杉)

 先程までの思い悩む悲痛な面持ちを一瞬で取り払って、桂は高杉を見据えた。すると高杉もすっと笑みを消して桂に対峙する。こうして二人が向かい合うのは、紅桜の件以来初めてであった。

 「お前を呼び出したのは他でもない、九兵衛殿のことでだ」

 ぴくり、その名を聞いて高杉の片眉が動く。だがすぐにいつもの調子を取り戻して、口角を上げた。肌寒い秋の冷気が足元を吹き抜けるのと同時、桂の手が刀の柄に触れる。無論、高杉がそうしたからだ。
 ──珍しい。桂は早々に殺気立った高杉を前に、そう思った。気を抜くことの許されぬ戦場以外でなら、普段の彼はとても緩慢に動く。そして突然牙を剥き、相手を一瞬で仕留めるのだ。彼は毒蛇に似ていると昔銀時に言ったら、爬虫類に例えるほど気味悪いかと的外れな返答を返された。勿論そうではなく、せかせかせず鷹揚に構え、余裕を滲ませながら事を成すと言いたかったのだ。そして一種の畏怖もまた、その例えには含まれていた。

 だというのに、この度の高杉はどうだ。用件を詳しく聞かぬうちから刀を抜こうとするなんて、これでは蛇どころかまるで凶暴な野良犬である。手を出す者に片っ端から噛み付こうとする、猛犬だ。早急な行動には焦慮すら感じられる。

 「恋は盲目とはよく言ったものだな……説得がむしろ無粋で、刀を交えることが当然にすら思えてくる」

 何が高杉から冷静さを奪い、こうも物騒な方向へ駆り立てるのかなんて、理由は一つしかない。彼と同じく隻眼の少女を思い浮かべて、桂は瞼を伏せた。再び一陣の風が吹き、彼の長髪を靡かせる。そこから垣間見える彼の眼差しは、憂いに染まっていた。旧友と斬り会うのはやはり気乗りしない。かといって彼女をみすみす奪われるのも気に食わないのだ。ジレンマの中で、桂は思う。思想も価値観も異なるのに、何故想い人は一致してしまうのか。二十数年生きてきたが、これほど皮肉なことはない。

 「なァ、ヅラ……てめェは俺のことを相変わらずだと言ったが、俺に言わせればてめェも何ら変わりねェよ」

 高杉が音もなく刀を抜いた。沈黙の中に風は吹き続け、耳元で唸り声を上げている。だが桂の方はいまだ決心がつかないのか、柄を握ったままでいた。
 高杉は知っている──桂はそういう人間だ。

 「てめぇは甘ェんだよ……今も昔もな」

 ──そして、月夜に銀の一閃が走る。





 
 「高杉……っ!? どうしたんだ、その怪我は!!」

 寝巻きのまま絶句して、九兵衛の瞳は中庭に釘付けになっていた。高杉はいつも何の前触れもなくふらりとやってくるが、今夜の彼は常と違って血だらけである。あまりに驚いて半ば放心していた彼女であったが、はっと我に返るとすぐに彼を部屋へとあげてやった。ぽたぽたと廊下に血が落ちるのを視界の端にとらえながら、それを遮断するように襖を閉める。途端、高杉がふぅと息を吐いて膝をついた。安堵するかのようなそれがあまりに彼に不似合いで、九兵衛の中にいっそうの不安が生じる。

 「一体何があった? 真選組にでも見つかったのか?」
 「いや、そんなヘマはしてねェ……ただ、ちょっとばかし誤算があってな」

 くっと喉奥で笑ってから、高杉は血に濡れた掌を眺めた。とんだ牙を持っていやがったと呟いて、今まで見たこともない瞳でこちらを睨んでいた桂を思い浮かべる。──あの時闇に光ったのは、自分の刀身だけではなかった。

 『……お前は俺のことを勘違いしている』

 宙に飛び散り月光に照らされた鮮血が自分のものであると判るのに、些かの時間を要した。驚きに片目を見開いた彼の耳に、桂の声が届く。一瞬前の戸惑いはまるで嘘のように消えていて、代わりにあったのは禍々しいまでの殺気、ただそれだけだった。


 『俺は甘いのではない……卑怯なだけだ』


 貴様が手を出すまで抜刀はすまいと思っていた。正当防衛にかこつけて、友人を殺した罪悪感に我が身を滅ぼさないで済むように。


 ──そう言って彼が見せた笑みを、高杉は一生忘れることがないだろう。


 (恋は盲目か……生憎俺は既に片方見えねーからな)

 片側の世界は元来闇に包まれている。それに比べて桂は闇にも女にも慣れていない。彼の浮いた話は一度も聞いたことがないし、ここまで恋焦がれた経験は尚更ないだろう。そんな彼が闇に落ちて狂うのは、きっと早い。
 昔から積み上げた劣等感やらも一緒に一振りに込める桂を見て、高杉は漸く彼が『狂乱の貴公子』などと呼ばれていた理由が分かった気がした。

 「九兵衛……桂って男を知ってるか」

 徐にそう問うと、包帯を巻き終わり既に片付けに入っていた彼女の手が止まった。何故今ここで、とでも言いたげな目だ。そんな九兵衛にいつもの如く優しげに目を細め、高杉は彼女の頭を撫でる。だが声までは穏やかに飾ることが出来なくて、九兵衛は彼の動作だけが酷く浮いて芝居じみているような違和感を覚えた。胸の中で消えることのない不安感に眉根を寄せて、彼女は彼を見上げる。

 「高杉……?」
 「……あいつも血だらけになっている、と言ったらお前はどうする?」

 するり、男の骨ばった長い指に、女の美しい黒髪が絡まる。闇に溶けそうな色のそれは桂のものとよく似ていて、それが何故だか高杉を無性に苛立たせた。九兵衛の目が僅かに怯えを含んでいるのに気づきながらも、本性を隠すことができない。作り上げた偽りの雰囲気をあっけなく破壊して、低く低く、彼は唸る。

 「答えろ、九兵衛」
 「……か、桂くんも君と同じで僕の友人だ……血だらけになっているならば、今すぐ助けに行く」
 「……へェ」

 ──友人、ねぇ。

 妖しく口元を歪めて、だが目元は冷たく彼女を見据えたまま、高杉は咄嗟に逃げようとする九兵衛の腕を掴んだ。吃驚して叫び声一つ上げないのをいいことに、そのまま乱暴に唇を重ねる。嫌がって身を捩る度にわざとらしく舌を絡ませて、高杉は漸く彼女の前で本当の自分を曝け出した。ショックに強張る背をつぅと撫でればびくりと震える。そんな無知な少女を、高杉は揶揄するように嗤った。

 「……何度、無理矢理押し倒そうと思ったかしれない……俺が危険な男だと忠告する奴はいなかったか? 無防備極まりない柳生のお嬢さん」

 涙を滲ませて悔しげに睨んでくる様にぞくりと欲情して、また口付ける。どんなに猫を被ったところで、世界を敵に回し復讐に溺れたままの自分では、彼女を幸せにすることなど到底出来やしないのだ。結局自分の好きなように振舞うしかなくて、彼は思うままに彼女を組み敷く。よれた布団の上に広がった艶やかな髪は、やはり底無しに黒い。その闇に、彼の失われた左目は嘗ての仲間を見る。

 (勘違いしてんのはてめェも同じだよ)

 劣等感を抱いているのは、桂だけではない。彼と同等に並ぶかそれ以上を行く為に、自分は多くのものを壊し、多くのものを失ってきた。恐らく、今回も。


 「……間違ってもヅラの名なんか呼ぶなよ、九兵衛」


 ──そう釘を刺して、高杉は桂より先に彼女の身体を得る。信頼を捨てて、彼にくれてやる代わりに。





回顧、繰り返す、現在の、絶望
(恋心、沈めて)

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