エキセントリック親父!
□傷口
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父と母、このふたりのなれそめは、博多にあるふたりの実家がはすむかいにあったことからはじまる。
義母と3人の連れ子に引っ掻き回されるという複雑な家庭に育った母は、16才のころ、3つ上の父の待つ大阪に、福岡から単身、汽車にのった。
当時19才の父は、会社勤めをしていたが、博多弁をいつもからかう上司を殴ってくびになり、幼い夫婦は無給になった。
しばらく父と母は、刑務所の作業場で監督をする仕事についたが、父は母のすすめで、治療師になるべく、学校に通いはじめた。
母が働き、父の学費をまかない、家計を支えた。
働きに働きぬいた。
若かったふたりは、子供を授かった。
母ははたちになっていた。
父の鍼灸の国家試験免許がとれると、若い父母と姉である赤ん坊は、名古屋に引っ越しをした。
家計を支えるため、幼い姉をひとり家に残して、母は働きに出た。
姉の一番はじめの記憶は、うちに、ひとりぼっちでこたつに寝かされ、まわりの床にお菓子が散乱している、という光景らしい。
母は治療院の一切の経理事務を担当し、家事にも手を抜かなかった。
いつもささやかながら、手作りの温かい料理がならび、うちのなかは、ぴかぴかに磨き上げられていた。
身の回りをこざっぱりと整え、貧しいながらも工夫して楽しむ、若い妻であった。
母はそうやって、父を支え続けた。
母が井ノ坂ビルを出ていってから、父は、そこから車で小一時間くらいの郊外の焼き物の里、瀬戸市に、一戸建てを建てた。
黄土色の屋根をした、洋館めいた一戸建てで、庭には芝生で煉瓦のような模様を作らせていた。
ヤマモモや梅の木やぐみの木があり、私と弟は、ひまわりや玉ねぎを植えた。
玉ねぎはうすむらさき色の、見事なねぎぼうずを咲かせた。
父が一戸建てにこだわったのは、理由がある。
母が新築のうちを気に入ってくれたら、帰ってくると信じていたからだった。
「女はな、男が浮気しても怒ったりしたらいかん。
めそめそ泣いて、床でもしおらしく拭いとるのがいいんやで。
妙子もそうせいよ。
そしたら可愛らしゅう思うて、帰って来たる。
だけどな、お母さんみたいに、髪振り乱して怒鳴ってみぃ。
恐い顔が浮かんで萎えるわ。」
この頃の父が私に言った言葉である。
母が帰ってきても、うまくいくはずなんてなかったが、わたしは、信じたかった。
父がどう交渉したのか、奇跡的にも思えるが、母が帰ってきた。
父は母のために、居間に座椅子を用意し、毎日、私にこっそりと、
「今日は母さん、座椅子に座ったやろ?」
と聞いた。
「ううん。」
と答えると、
「何で座らへんのや。」
と、心底がっかりしているようだった。
母が帰ってきてくれたことを私と弟は、心底喜んでいた。
それまでぶあつい雨雲のようにたれこめていた重いものが、私たち姉弟のこころの中から、たちどころに消えていった。
母は、私に何が欲しいか聞いた。
私は、こいぬがほしい、と頼んだ。
私にとって、こいぬは幸せの象徴である。
程なくして、小さな可愛いテリアがうちにやってきた。
黒ベースに茶色の長毛の子犬だった。
母に子犬には、何をあげればよいか尋ねると、牛乳でもあげれば?
というので、皿に牛乳を入れてのませてみた。
ところが、飲むたびに衰弱していく。
牛乳をあたためてみても、弱る一方である。
下痢をしていた。
どうすればよいかも、わからぬままであった。
おろおろしている間に、5日目には死んでしまった。
家出していた姉が後日言うには、子犬には牛乳を与えてはいけないのそうなのである。
牛乳は、いぬの母乳の5倍もの脂肪分があるため、消化吸収できずに死んでしまうらしい。
私はまだ私の部屋であった2階の自室にこもり、ひたすら泣いた。
胸が絞られるかのように痛んだ。
子犬に対する申し訳ない気持ちと、帰ってきた母に対するあまい気持ちが相まって泣いていた。
−母はきっと私をだきしめてくれる、なぐさめてくれるだろう。
母は階段の下から心配そうに私に声をかけた。
2階にある自室のドアを少し空けると、なだめるように、優しい言葉をかけてくれた。
私はほっとして、でもまだ、悲しみに支配され、自室に引きこもった。
すると、母は、いきなり怒鳴りはじめた。
「いつまで部屋にこもって泣いとんの!いいかげんにしやあよ!」
と怒鳴った。
たぶん、ものごころついてからというもの、私は母親には一回も、だきしめてもらったことはない。
年子の弟もいたし、家事に手を抜かない母は、忙しくていっぱいいっぱいだったのであろう。
こんな状況であるし、母も不安定な精神状態だったであろう。
部屋にこもり、泣いていた私は、体に鉛が巻き付いているかのように、重い足取りで部屋を出た。
−甘えてはいけない。
泣き止まないと、またお母さん、いなくなっちゃう…。
この、一心だった。
悪い子にしたら、また、母が突然消えてしまうかもしれない。
学校に行っても、帰ったら母がまた消えてしまってはいないか、いつも、それを心配していた。
母は、条件として、父にこう告げて帰ってきたらしい。
「あんたの妻としてではなく、子供たちの母親として、帰る。」
父はそれを了承した。
筈だった。
一階の、畳み敷きの6畳間に2枚のふとんをしき、私と弟に挟まれるように、母が真ん中で添い寝し、久しぶりに川の字になってねむった。
幸福と満足。
母が出てからというもの、泣いてばかりいた弟が、安らかな満ち足りた表情をしていた。
私たちがねむると、父が突然襖をあけて入ってきたらしい。
父は全裸で、仁王立ちであった。
「ええやろ。」
父は、素面である。
母は、
−子供たちの目の前で、なにしとんの!
と、父に怒った。
約束が違うではないか、と。
父は、その頃傾倒していた、キリスト教の牧師に、母とのことを相談していた。
牧師は、
「女なんてやればしおらしくなるもんだよ。
夫婦間の喧嘩なんて、やればおさまるから。」
と答えた。
母は、また、いなくなった。
学校から帰ったら、うちのなかが薄暗い。
母がいない。
庭や風呂場まで、探したが、どこにもいない。
家というのは、人がひとりいないと、こうもがらんとするものなのか。
私が怖れていたことが、現実になった。
まだ帰ってきていない、弟の泣き顔が浮かんだ。
こころぼそさに、ひざがおれ、涙が出た。
そして母は、それから2度と、帰ってくることはなかった。
父は、母親のことを、
「あいつはそういう血筋だから。」
といい、家出を繰り返す姉のことも、
「冴子は森口(母方の実家)の血をひいとる。そういう所が、ある。」
と、どや顔をした。
それからしばらくの間、私と弟は、うちの近くにある佐藤のおばさん、という人の家に遊びに行くように言われた。
佐藤のおばさん宅は、3世代住宅だった。
たんぼの中に建つ小さな一軒家で、部屋のなかはアンティークな小物や手芸品などがかざられていた。
窓をあけると、たんぼが広がっていた。
佐藤のおばさんの家に慣れてきた頃、私は、窓から広がる一面のたんぼに向かって、クリスタルキングをサビだけ、歌った。
その家には、成人してドカタをしているおばさんの息子夫婦と、男の子の赤ちゃんがいた。
ドカタの息子は小柄であったが、引き締まった体躯は小麦色に焼け、黒い髪にはパンチパーマをあてていた。
トヨタのソアラは、そーやらー!(瀬戸の訛りで、そうでしょ、の意味)が語源だと何回も言った。
純な弟は、それを信じた。
2才くらいの愛くるしい幼児と、弟と私は、ずっとずっと遊んだ。
あまやかで、やさしい家庭。
その家庭の子供として迎えてもらえたという、錯覚にとらえられていた。
お嫁さんはとてもやさしくしてくれた。
素敵な人だった。
しかし、佐藤のおばさんは、お嫁さんとうまくいってなかった。
それは、お嫁さんがおばさんの悪口を、2才児に吹き込み、2才児の口を通じて、本人に伝えるという、深刻なところまで進んでいた。
そして、反抗期に入っていた私は、パンチパーマに嫌われており、パンチが帰宅すると、よく、
「出ていけ!」
と怒鳴られた。
手をあげられたこともある。
私は仕方なく、真っ暗になった道を、自分のうちまで20分程かけてとぼとぼと歩き、鍵を持っていなかったため、うちには入れず暗い玄関の3段ある階段に腰掛けてじっとしていた。
うちの鍵を持っている、佐藤のおばさんが帰宅するのを待つよりなかった。
佐藤のおばさんが、うちに住み着くようになったのは、それからすぐのことだった。
おばさんといっても、血縁ではない。
それまで、全く知らない他人であったが、私と弟の感情は、フラットなものであった。
嬉しいとも、嫌だとも、なんとも思わなかった。
他人がうちに入ってくることに、そろそろ麻痺をしはじめていた。