エキセントリック親父!

□傷口
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 7才上の姉は中学生だったから、父親の女性関係は母から聞いて知っており、思春期に母が失踪するというきつい思いをした。

 黒電話が鳴ると、

「お母さんだ、お母さんからだぁ!」

と飛び上がって喜んだらしい。

 そのほとんどの電話は、母親からではなかった。

 高校に上がると一年で登校拒否をした。

おかっぱで赤ジャージの婆さん体育教師が嫌だったらしい。

 赤ジャージ婆さんは、機嫌がよいと

「あたしの顔にはねぇ、ダーツやギャザーがあるでいかんわ。」

と、自虐ギャグを何回もかましたし、赤ジャージ婆さんに気に入られると、なにわのソフト昆布飴をくれた。

 嫌われると、面倒臭い相手である。

 赤ジャージに、とことん陰湿にいじめられている、体育科の若い女教師がいた。

 赤ジャージは、体育科の主任教師であるため、生徒はもちろん、教師さえも逆らわなかった。

 どんくさい姉は、赤ジャージから、唾液を含んだソフト昆布飴の如く、ねちねちとした攻撃を受けていた。

 体育の授業は、さぼるようになっていった。

このままでは退学になりそうだった。

出ていった母が、

「知り合いの政治家に頼んでみる。」

と父に告げたので、父はこの大切な案件を長い期間放置した。

挙げ句、母の、

「むりだった。」

の一言で、どうにもならない段階に来ていた、退学を通告されてしまった。

姉はグレていたわけでも、ヤンキーになったわけでもなかった。

漫画やアニメが好きな、ガンダムオタクの、どんくさいけど目の丸い、可愛い少女だった。

退学は、十代の少女の、小さな間違いがきっかけであった。


 母がいたら、きっと止めたであろうが、友達をうちに迎えた時、紅茶にブランデーを数滴たらしたものを出したらしい。

 中学生であるため、価値観は不安定であるし、常識的な判断などは、時として難しい。

 この時うちに来た友達の親から、学校に通報があった。

紅茶に数滴のブランデー、これが、同級生に飲酒をすすめた、と判断されてしまった。

母親はいない、 体育はさぼる、出席日数がたりないわで、学校側の判断は、退学であった。

私立の伝統ある女子校である。

 親からも放置され、教育をもっとも必要としているひとりぼっちの姉を、その枠からほうりだした。

だれも姉を守ってはくれなかった。

 15才の姉は、自分の部屋に閉じこもった。

 父は、姉に、なんもやらんでうちにいるなら家事をやれ、と言った。

 姉の部屋は、いつのまにか、もぬけの殻になっていた。

 私は、学校に行かないとうちにひとりぼっちになってしまう恐怖から、学校にはきちんと行った。

 母が私を、公立の小学校から、姉と同じ私立の女子校の付属小学校に、転入させていた。

 私はここでも周囲から浮きまくっていた。

 私学に通わせる親というのは、教育熱心であるし、子供の周囲を注意深く見ている。

 私のように、毛色の違う子供を、自身の子に近付けないようにする。


小学校で私は、母親のいなくなったショックで毎日泣いていたし、無気力だった。

「楠木ちゃんは、いっつも泣いてるね。弱虫!」

と言われるほど、よく泣いた。

 体操服に着替えるとき、優等生の新井さんが、

「楠木さん、昨日とぱんついっしょじゃない?」

と大きな声で言った。

 まわりはどよめき、私のぱんつに熱視線が注がれた。

 母親がいない私には、身の回りの世話をしてくれる大人はいない。

 同じぱんつを2日つづけてはいていた。

「ちがうよ、もいっこ、おんなじの、あるんだもん。」

 つぶやけど、まわりの嬌声にかきけされてしまった。

 当然、はば(仲間外れ)である。

 飢えた優等生の餌食になった。

 それは、給食の時間だった。

 15人ほどしかいない少人数学級だったので、狭い教室でも全員の机を円形に並べられた。

 給食時には、みんなで円になるように、机を動かす。

 なかよしどうしは必ず隣に。

 私はどこの隙間にも、入れてもらえず、クラスを鳥瞰図的に見られたとするならば、私の机は、丸い円の外側に、小さな黒い点のように見えたに違いない。


 丸いあんぱんから落っこちた、芥子つぶのような、こころもとなさである。 

−しばらくは、話しかけても、みんなから無視される。

 これ、しばらくつづくんだろうな。


 観念するしかなかった。

 授業はちゃんとうけるものの、家庭学習はまったくしていなかった。

 うちに帰っても、ひとりである。


 勉強したってだれもほめてくれない。

 なにより、愛情のない生活で無気力になっていた。

 淋しくなると、遊びに行った弟を近所中探しまくって、無理やり連れ帰る。


 学校にも友達はなく、入り込める隙間すらない。


 あるのは不安定な人間関係だけだ。

 うちでも、ひとり。

弟がいれば、ふたりになった。

 ふたりで、コロコロを読んだり、食卓の上に父が毎日置いてくれていた百円で、お菓子を買って食べた。

 飼っていた半のらの猫たちだけは、私たちにやさしくしてくれた。


 泣いていると、心配そうに見上げて膝にのってくれた。


 弟と庭で泥遊びをして、おにぎりを三角に作る方法を体得した。

 これで、遠足にはおにぎりを持っていける。

 すこし、ふつうに近付けたと思うと、うれしくなった。

 どうやったら、普通の人のように暮らせるのか、まったくの謎であった。

 しあわせは、ふたりだけの姉弟から、いつも逃げていった。

 誰もが、私たちに無関心であった。

 私が5年生の時に、小学校にクラブができた。

 私は、器楽クラブに入った。

 はじめはトランペットだったが、あまりにへたくそなので、ユーフォニウムに配属された。

 楽器に触ると、つらいことを忘れてしまった。

 器楽クラブには、朝練もあり、毎朝7時20分には学校に着くようにする。

 うちから学校まで、1時間半と少しかかるから、ひとりで5時半に起きて、平日は徳光さんのズームイン、土曜は松本伊代や柏原芳枝のぱりんこ学園を見て、クノールカップスープとトーストを食べ、6時前にうちを出た。


 誰よりもへたで、楽譜も読めないけれど、真剣に練習した。

 あまりの下手さに、先生から私だけ居残りを命じられた。

−何をしても、あたしはだめなんだ。

 お母さんがいる子にはかなわない。

 悔しくて、涙が表面張力を起こしていたが、目を見開いて、こぼれ落とさないようにした。

 母に、会いたくてたまらなかったが、方法が見当たらない。

こうして日々を送り、小学校卒業の日をむかえた。

卒業式に、母が来た。

 「楠木ちゃん、校門の前に、誰か来てるよ。きれいな女の人。妙子を呼んできてって言われたよ。」

 不思議そうに私を見つめる同級生を背に、私は駆け出した。

 薄桃色のワンピース姿の、母がいた。

 母は、花束をもって、泣きながら、校門の前まで来てくれていた。

「妙子、ごめんね、ごめんね。」

と、私に花束を手渡すと、
振り向き振り向きごめんなさい、と言い、手を振りながら去っていった。

 母の姿がどんどん小さくなっていく。

 それを見送り、涙の止まらないまま、卒業式にのぞんだ。

 卒業式には、父が出席する。

 母は父には会いたくなかったのであろう。

−誰も泣いてないのに、わたしひとり泣いてたら、父に怪しまれる。

 母が来たことが父にばれたら、ひどく叱られる。

 わかってはいても、泣けて泣けてしかたがなかった。

エスカレーター式の中学に上がる同級生は、誰一人として泣いてはいなかったが、私一人、場違いなほど嗚咽し、号泣していた。


家に帰ると、案の定なぜ泣いていたかを、父にしつこく問いただされた。

仕方なく、母が来たことをぽつりと言うと、

「苦労して育てとんのは俺やで!こういうええ時ばっかり来よる。あいつはずるいわ。そんな、花束、いらんわ!」

と言った。

「妙子、喜んだらいかんぞ。おまえらは、あいつに捨てられたんやで。」

父は、母の写っている写真をアルバムから剥がし、父に渡すよう、言った。

 大切な思い出まで奪われる。

 いやだった。

 しかし父は、執拗にそれを迫り、母の写っている写真を差し出せ、と何度も言った。


 母の写真を、ひとり泣きながら剥がした。

 顔を整え、なんでもない事のように、父親に母の写真を渡した。

 なぜ、母の写真を捨てるように執拗にせまったのかが後になりわかる。

 父に、女ができたのであった。
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