エキセントリック親父!
□傷口
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いつもひとりだった。
あれはまだ、小学校に入学してすぐの、葉桜の頃だったかとおもう。
上り坂を5、6人で下校していた。
真新しいランドセルが、太陽を受けて、ぴかぴかに光っている。
私は、手の指の第一間接をすべてまげて、みんなに見せて歩いていた。
ウケると思った。
ひとりの男子が、
「犬みたいー。」
と言って逃げると、女の子達もきゃーきゃー言って、上り坂を駈けはじめた。
ひとり残された私は、しかたなく、その(犬みたいな手)、をしたまま、ふざけて、皆をおどかしながら歩いた。
浮いてしまったのが恥ずかしくて、ちょっぴり淋しくて、ふざけてやり過ごすしかなかった。
なかよし、という、得体の知れない価値観がある。
私がその、なかよし、を渇望して、追いかけても、それらは、にやりと顔を見合せて、私から逃げていった。
ある日、美少女のゆりこちゃんの家に誘われた。
私は、美少女にふさわしい、少女趣味の子供部屋に通された。
白いしゃれた棚には、少女漫画の単行本や、ハードカバーのグリム童話、偉人伝などがならび、勉強机はきちんと整頓され、ガラス張りのショーケースにはぬいぐるみや可愛い小物たちがきれいに陳列されていた。
そこに住む姫のようなゆりこちゃんと何をして遊んだのかは全く覚えていない。
美しいお母さん、お姉さんが、
「またきてね。」
ときらきらしながら、言った。
帰りぎわ、その時まで、なかよくしていたゆりこちゃんは、上り坂をあがりきった十字路までわたしを送ると、ひとこと、
「たえこちゃんて、ほんっとにぶす!」
と憎々しげに言って走って帰っていった。
しばらく動けなかった。
私は極度のまぶしがりで、写真にうつる私はいつも、苦痛にゆがんだ顔をしている。
それだけではない。
姉と弟は、母親似で目の丸い愛嬌のある美しい顔をしていたのに、私は父方の方の血筋を濃く受け継いだようで、目は平目のように離れ、鼻は穴が見えるほど上を向き、幼心にも自分の顔には幻滅していた。
しかしそれは自分のこころのなかの思いであるとばかり思っていた。
しかし、他人にもそう認識されていたのだと、初めて知った。
衝撃であった。
母親はいつもいらついており、そのいらつきの元凶が何かもわからぬまま、私と弟はよく壁のすみまではりとばされた。
銀杏の繁る真夏でも涼しい神社で、近所の母娘とうちの母、5歳だった私と、年子の弟で遊んでいた。
「お母さん、ジュースがほしい。」
と言うと、
「がまんしなさい。」
と母は言った。
我慢できなくてぐずり、、弟に八つ当たりをした。
母は、いきなり、私の前髪をひっ掴み、ぐるぐると円を描きつつ、ひきずりまわした。
5周ほど回っただろうか。
私は、母に引きずられつつ、困惑している近所の母娘の痛いほどの視線を感じ、恥ずかしさがこみあげてきた。
ひっぱられている前頭部が、焼けるように痛かった。
−いつまで続くのだろう。
銀杏の根が、ひんやりと湿った土の上を這っていた。
蝉の声が、神社の大木のの林の上で、何層もの薄いもやをかけていた。
私が泣くと、稀に、母はその指先で、優しく前髪を、ぺったりと七三になでつけてくれることもあった。
泣き顔の七三、見た目はだめおやじである。
母は育児の合間に、裁縫もした。
黒地にカラフルな色の花のついた綿ポプリンでフレアースカートや、白地に赤や青のいかりの模様のシアサッカーのミニサマードレスを作ってくれたし、冬は、手編みのマフラーを、弟と私にそれぞれ編んでくれた。
料理上手な母親でもあった。
ハンバーグや、唐揚げは、私も弟も大好物であった。
−ママは、なんでいつも笑わないんだろう…。
この疑問は、何回も何回も、浮かんでは、消えていった。
そして、突然、母がいなくなった。
前触れなんてなかった。
それから何日も、何年も、帰ってこなかった。
私が小学3年の時である。
一週間程たった、薄い雲がかかった春のまだ明るい午後に、しらないおばさんがわたしひとりのうちにやってきた。
玄関先で、中腰になって、うちの内情をあることないこと聞いていった。
うちのなかは薄暗く、玄関の、知らないおばさんの肩ごしに薄く白い光が漏れて入る。
おばさんは、やけに赤い口紅をつけ、にやけた笑顔をしていた。
お茶をだして、聞かれるがまま、丁寧に答えた。
興信所の調査員であった。
後日父が、
「妙子は興信所にお茶を出すでいかんわ。」
と呆れていた。
同じようなおばさんが、間をあけず2回も来て、同じようなことを聞いていった。
あれはきっと、父と母がそれぞれ雇った興信所だったのであろう。
それからも母は帰らず、連絡先すらわからなかった。
私は3才の頃に買ってもらったハイジのプリントのついた肌着を、小学校5年生になるまで着て過ごした。
すごく痩せていたから、ハイジの肌着の横幅は不都合なく着られたし、着丈は伸びていたので大丈夫だった。
肌着を買う、ということすら意識外のことで、わからなかった。聞こうともしなかった。必要なのかもわからなかった。
薄暗い部屋の隅にある、背の低い、合板の焦げ茶色のひきだしから、白い肌着の片袖がいつも垂れ下がっていた。
夏休みの昼下がり、二年生になったばかりの弟が、洗濯機の槽に入り込み、スタートボタンを押した。
蓋は開けたままで、弟はげらげら笑いながら回って回って回り続けた。
−えっ、いけないよ。
はじめは、私も戸惑っていた。
水はとめどなく流れ、やがて溢れだし、洗面所から台所の床までやってきた。
−いつもの台所じゃ、ないみたい!
まるで物語の世界に入り込んだかのような、不思議さに昂揚した。
私は、台所で足首まで水に浸かり、しばらく楽しんだ後、ぱんつを下ろしておしっこをした。
弟はびっくりした顔で私を見つめ、また、げらげら笑った。
弟は洗濯槽から出てくるとぱんつを下げ、げらげらわらいながら、おしっこをしはじめた。
ふたりで、死ぬほどわらった。
楽しい風景にはいつも、弟がいた。
そしてうちにいるのは、いつも、こどもふたりきりだった。
父親は、自分は夜中の12時までに帰ればいいと思っていたらしい。
なぜなのかを尋ねると、
「だって、その日のうちやろうが。その日のうちに帰るなら、いいやろうもん。」
と言った。
幼い頃、父と風呂に一緒に入ると決まって、ハックルベリーフィンの大冒険の話をする。
川を下り、すごい冒険をするんだ、と、のぼせた赤い顔でいう。
話が浅い。
父はきっとこの話、読んだことがないのか、もう覚えていないんだな、と思って、毎回聞いていた。
あれはまだ母がうちにいる頃、私が熱を出して、6畳の畳み敷きの部屋で寝込んでいると、父は枕元にやってきて、抱き人形をくれた。
人形は、50センチと大きなもので、茶色の小花柄のワンピースに、きなりのエプロンをつけ、茶色の編み上げブーツを履いていた。
顔はプラスチックでできていて、キャンディキャンディみたいな目をしていた。
そばかすまである。
花柄のボンネットをかぶった髪の毛は黒くストレートで、シャギーが入り、髪型は70年代のせらまさのり、もしくは、もんたよしのりだった。
指が吸えるようになっていて、おやゆびが丁度はまるように、口を突きだしていた。
−どうしたんだろう?発熱くらいで、なんで、お人形?
それでもうれしかった。
人形のスカートをめくると白いかぼちゃぱんつをはいていた。
次の日、人形のワンピースを胸までたくし上げ、布地でできた白い腹に、赤のくれよんで大きな亀裂を描いた。
開腹手術である。
何度も何度も、赤やだいだい、茶色を塗り重ねた。
弟は、しゅじゅつー!と言ってげらげら笑い、自分も塗る、とくれよんで一緒に塗った。
母はぎょっとした顔をして立ち尽くしたが、顔を背け、さっさと別室に行った。