佐藤敏夫の危険な夜

□狂気の日本海
1ページ/6ページ


 髪結いの亭主というのは、果たして蔑称なんだろうか
 弁護士の亭主というのは、どちらなんだろう

 どちらにも共通して、少なくとも言えること

「本人にしか判らない悩みがある」

 俺の配偶者殿である佐藤依子は、大阪弁護士会所属の弁護士である
 つまり俺は、弁護士の亭主
 しかし同時に、裁判所の事務官

 弁護士という職業
 活動エリアは人によって大きく異なる
 テレビの人気者や大企業の顧問になり、高額の報酬を得る弁護士
 世間の脚光を浴びることなく、地道に社会正義を目指す弁護士

 依子は確実に後者である
 大多数の他の弁護士と同じなのだが、女性である点と経歴の特異さから、マスコミからの出演依頼もある

 しかし依子は受けない
 その理由を詮索する世間の、と言うよりマスコミの声も聞こえてくる
 何でも、亭主が裁判所の職員だから、遠慮しているのだそうな

「敏夫、これ、どう?」
 来た
 前提条件なしの、いきなりの質問
 マスコミに出たがらないのは、俺のせいなんかじゃない



「健太は?」
「トレーニングだって」
 俺は健太の不在を確かめてから、依子が差し出した事件記録のコピーを開いた

 お断りしておくが、ここは俺名義の自宅マンション
 弁護士・佐藤依子は、配偶者である俺の自宅を弁護士事務所として使っている
 もちろん俺も納得はしているが、こんな日々が来ることまでは予測していない

 日曜日の午後、リビングでの夫婦の会話
 クイズ番組や野球中継で知識をひけらかすか、お笑い番組に馬鹿笑いするか
 やがて遊びから帰った子供と一緒に買い物へ
 ところが弁護士の亭主には、そんな世間並みの時間はない

「コーヒー飲むでしょ?」
 一応は疑問形であるが、内容に疑問は含まれない
 断定形である
「ああ、もらう」
 このコーヒー豆が、事務所の経費か自宅の食費かなんて、もうどうでも構わない
 どうせ、確定申告も俺が受け持つんだ

【丹後連続殺人事件】
 どう考えても、日曜日の午後の自宅のリビングに相応しくない
 これがテレビの番組なら、まぁ許せないとは言わない
 しかし俺が手にした事件記録のコピーは、作り話でもドラマでない
 現実にあった事件の、控訴審裁判記録なのだ


 事件は数年前
 京都府北部の過疎化が進む町で起きた
 被告人は、両親と夫を殺害した
 被害者が3人という殺人事件は珍しい
 普通ならセンセーショナルな事件として報道されても不思議はなかったが、何故かマスコミの扱いは小さかった

 2006年6月3日(土)
「この日付…」
「どうしたの?」
 息子の健太が小学校5年生だった時だ
「いや、ちょっと…」
 すぐには思い出せそうにない
 けれど何かがあった日だ


「判決」
 事件はすでに一審での判決を終えている
「主文」
 被害者が3人の殺人事件である
 いわゆる極刑だった
「理由」
 被告人が、自らの夫と両親を殺害
 自らは呆然自失の状況となり、臨場した警察官により現行犯逮捕された
 通報は、異変を察した近隣住民の通報による

「雨、降ってたはずや」
 俺は事件記録を閉じて、一緒に目も閉じて言った
「何?急に」
 その時、依子は居なかった
「遠征かな?」
 何かのイベントかも知れない


 被告人は、当初から事件を自白した
 物的な証拠も自白と矛盾せず、被告人の有罪を疑わせるような証拠はなかった
 一審の京都地方裁判所舞鶴支部に、他の選択肢はなかっただろう
 ちなみに当時は、まだ裁判員制度は始まっていない

「完璧なものは疑え、でしょ?」
 依子はコーヒーを飲みながら言う
 それは、俺が依子にプレゼントした言葉だった

 完璧なものは疑え
 自然なものには、どこかギクシャクした不自然さが残る
 そのギクシャクもなく完璧な形をしたものは、自然でない可能性が高い

「完璧でも何でもない」
 この事件が完璧であるなら、一旦は死刑を覚悟した被告人が控訴するだろうか
「量刑だけの控訴だってあるわよ」
 時折は大阪高等裁判所の国選弁護人も受任する依子は、被告人の主張に振り回された経験もある
「最初から死刑しかないことぐらい、子供でもわかる」
 俺は少々ムカついた
 両親と亭主を殺して、死刑以外の何があり得る?

 なるほど、心神喪失などの責任能力
 正当防衛などの違法性
 背景にあった止むに止まれぬ事情などの期待可能性

 しかし、そのような主張は、一審判決までに行うべきである
 裁判の当事者は、いわば「喧嘩相手」である
 けれど、喧嘩にはルールがある

 被告人に死刑を免れる理由があるなら、その主張は一審でするべきだ
 意図的に一審判決を得た後の主張であるなら、裁判手続を馬鹿にしている

「バカでも天才でも、主張は主張なの」
 依子は苛立った
「だったら自分でやれよ」
 俺も苛立った
「大きい声出すんが偉いんか?」
 いつの間にか、健太が戻っていた
 
次へ

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ