本6 ジノバキ

□beginner
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泣きそうな表情にも見える椿が、昂揚させた頬と少しだけ上がった息遣いで恐る恐る距離を縮めて来た。
ソファーへ座りゆったり腰を落ち着けていたジーノはまるでスローモーションでの映像を見ているかのようなその動きを黙ったまま静観した。
事は数刻前、偶にはバッキーからおいで、とジーノが毎度ながら何の前触れも無く思い立ったままにそんな無茶振りをしてみた事から始まる。
え⁈と一言発した椿は、その後長い間自分の頭の中で言われた言葉を繰り返した後、精神的に自分との戦いを強いられた。傍から見れば完全に硬直してしまい動か無い椿に、何らかの助け舟は出してやるべきであろうが、其れすら楽しんで眺めていられる気紛れな王子様は頬杖をつき優雅に柔らかい笑みを浮かべたまま愛犬の静かな葛藤を傍観していた。
その愛犬は今目の前に不安な面持ちでジーノの端正な顔へと影をつくる。

「王子…」

上擦った小さな声は当人の緊張を如実に表す。互いの前髪が重なり視界には震える睫毛を伏せる椿を捉え遠慮がちに唇が触れあった。
正に触れただけの唇は浅い拙いもので、それでも一杯一杯の表情の椿の健気さに愛しさが込み上げる。離れた唇に物足り無さを感じつつジーノも一時閉じていた目を開くと黒い目を潤ませた椿とその目が合う。
その目がとても綺麗だとジーノは思った。思わず手を伸ばすと、きゅと閉じてしまったので手の腹で優しく閉じた瞼を撫でると頬を益々昂揚させた。
椿の精神的な限界は熟知してるつもりなので、此れで終いにしてあげようかと内心で、手の平を頬へとゆっくり下ろす。そろりと瞼を上げた椿の瞳はトロンと蕩けそうになってジーノを映した。

「…王子」

頬に触れるジーノの手の平に甘える様に椿が唇をあてる。其れを離した後自ら頬を寄せる椿は懐いてきた犬のようでジーノは口角を上げた。
随分と遠慮がちではあるが其れが椿からの精一杯の誘いであると気付く。

「バッキーの本心?」

自分が促せたから無理にそうしているのでは無いかとジーノが尋ねる。

「…嫌だったらしません」

真っ直ぐジーノへ視線を返して椿が答える。

オドオドしている普段とは違うしっかりとしたその視線は偽り等微塵も無い。本当に素直に真っ直ぐ育ったのを微笑ましく思ってしまう。

「バッキー」

思わず抱き締める。自分より少し体温の高い身体は抱き締めると何処かホッとする。

「もっと強請ってよ」

「……へ?」

ふっと上がるジーノの口角に椿はドキリとする。決して強制でも無いのに誘導される様に首を縦に振ってしまうのは何の力が働いてるのだろうか…。その後のジーノの満足そうな笑みが見られるならどんな力でも構わないか、と椿は小さく頷く。
ジーノの手は頬を滑り顎のあたりに指先が触れる。緩く持ち上げられ親指が唇をなぞると、先程重ねたばかりの感触を思い出しぞくりと身体が震えた。

「王子…」

近付くジーノの顔にドキドキと鼓動は早い。少しだけ早く再び椿から唇を重ねる。小心者であるせいもあるが慌てた。

「…あ、…スミマセンっ…、逸れちゃいました…よね」

真っ赤な顔をして気恥ずかしさと、照れる表情の椿が可愛い。緊張と精一杯の行為も愛しくて堪らなくなる。

「じゃあ次はちゃんとしてね」

そう言いジーノは動く事を椿任せにしてしまい"待ち"の状態である。自ら濃厚に口付けて涙目になる様も可愛いらしいが、最初に振った以上頑張る椿に任せてみるのも悪く無いかと思案する。椿の背にまわした手を移動させ少し力を込めて腰を引き寄せる。

「お、王子が…嫌じゃ無ければ…」

「勿論だよ」

ジーノは微笑むと空いてる手を伸ばして指を絡める様に交差させる。腰にまわされた手も、この交差させた指も溶けそうな程甘く柔らかい。しかし、ふと逃げられ無い事にも気付く。
視線はふわふわ宙を移動する。怖ず怖ずとその視線をジーノと合わせるとビクッと椿は肩を跳ねさせた。
結局、僕から口付け無くても涙目になってるなぁ、とジーノは椿を見ながらやれやれと肩を竦めた。

「嫌な、訳じゃ…無いスからね」

「わかってるよ」

必死な椿はタジタジになっている。
可愛いなぁ、なんて呑気にその様子を眺めるジーノの想いはまだ椿には考え及ば無い事である。



おわり
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