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□触れられない
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四月八日
毎年そうなんだけど、始業式は退くつなものだった。
小学校も六年間も通ってしまえば何の感がいもわかない。
担任は去年と同じだし、クラス替えもないから今年もおおとりやヤツの周りにいる男子と一緒に過ごすんだろう。
でも、今年は一つだけ変わったことがあった。
式が終わり、帰ろうとしていた時に中等部の方から異様なざわめきが聞こえてきたんだ。
つきつめてみると、それは一人の新入生のしわざだった。
やじ馬の話を聞く限り、彼は入学早々テニス部を乗っ取ってレギュラーの人たちをコテンパにのしたのだと言う。
変な人だ。
だけど、テニスはばつぐんに上手い。
俺は球技なんて好きじゃないけれど、あの完ぺきなプレーをする彼をたおすためならテニス部に入ってやってもいい。
いや、たおしたいのだ。
俺がそう言うと、おおとりは「俺も入ろうかな」と笑いながら言った。
早く中学生になりたい。
「あと1ゲーム、お願いします」
幼稚舎卒業から約一年後、日吉はもう何時間もコートの上に立っていた。
朝晩はまだ白い息が出るくらい寒い季節だというのに、汗でびっしょりになったユニフォームは体のラインをくっきりと写している。
いよいよ息も苦しくなってきた。
「あン?そんな体で何言ってやがる。もうヘトヘトって面してんじゃねぇか」
「跡部さんこそ」
「ばーか。俺とおまえを一緒にすんなよ」
そんな日吉に対し、ネットを挟んで向かい合っている跡部の実に爽やかなこと。
ほぼ同じ運動量をこなしたはずなのに口元には笑みまで浮かべている。
無論、年齢の差によるものではない。
体力と実力の差だ。
或いは――
「わかりましたよ。片付ければいいんでしょう」
この時間になるといつも、コートに残っているのは日吉と跡部だけだ。
レギュラー陣も夜の七時を過ぎた頃には完全に居なくなってしまう。
こんなはずじゃなかったのに。
と、ネットを降ろしながら日吉は思った。
十三年間生きてきた己の性格において、自信過剰な部分があることは素直に認めよう。
勝ちを急いだ結果足下を掬われ、苦汁を嘗めたのは一度や二度ではない。
だが、それを差し引いても彼はあまりにも大き過ぎるのだ。
かつては実兄がそうだったように、日吉の前に高く聳え立ってはその存在を毎秒色濃くする。
「これで何敗目だ?」
という問いかけに、
「十三敗ですかね」
いくら気のない振りをして答えても、跡部の口角が上がっていることも日吉は知っていた。
「そうしょげるんじゃねぇよ、若。テメェにはまだ伸びしろがある。結構なことじゃねーの」
「あんたに言われても嬉しくないですよ」
「フン、生意気な小僧だ」
「お生憎様」
辺りは既に真っ暗だ。
でも、その闇が今は有り難かった。
跡部の、唯一実兄と違うところは彼が美丈夫である点だろう。
血を分けた兄を貶しているわけではない。これはただの事実だ。
――こんなはずじゃなかったのに。
それは同時に、あの頃の自分では想定出来なかった想いを指している。
無論、跡部の性格も嫌というほど知っている。
彼はどんなに器量良しでも簡単には手に入らない類の男だ。
自分をどう美しく見せるかの方法を熟知し、常に帝王であり続ける。
――或いは、それが自分との決定的な差なのだ。
今は彼の何気ない言葉に赤面する程度で済むが、そのうち呼吸をするのが苦しくなって、心を全て持っていかれるに違いない。
その時は多分、声を上げて泣くのだろう。
いつだって良い男というものは女を泣かせるものだ。
「……女じゃなかっただけ、マシか」
ふと漏らした言葉に跡部が振り返る。
闇に浮かぶ姿までもが美しいのかと、日吉は盛大に溜め息を吐いた。
「なに人の顔見て溜め息吐いてやがる」
「別に、何でもないですよ」
そんなことより、ほら。
今日は星がたくさん出ています。
それは精一杯の強がりだったが、微笑を浮かべる彼を見てしまっては泣きたい衝動をこらえ、必死に前を向いた。
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