雨の波紋
□第5章 傷跡
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何が起こったのか、わからなかった。
黒い大きな手と、憎悪に満ちたあの、目。
首に力が掛かった。
ぐっ、と締めあげられる。
息が苦しくて、せき止められた血管が悲鳴を上げているのがわかる。
どうして…?
明にはあんな優しい目で見るのに、どうして私は……
体が動かない。
視界に靄が掛かってきたところで、手が離された。
床に崩れて、咳き込む。
こちらを見向きもしない父の後ろ姿を嘘だと思いたかった。
*
春奈は、後ろの席の炯を振り返った。
しばらく、隣の吹雪に寄り掛かってずっと寝ている。
吹雪も小柄だが、炯はそれよりもう一回りくらい小さい。
こうしてみると、やはりカップルみたいだった。
「あら、炯さん、まだ起きないの?」
横から夏未が声をかけてきた。
「まだ具合が悪いんでしょうか?」
「いや、朝から特訓してたから眠いだけだと思うよ」
吹雪が言った。
あれ?
春奈は首を傾げる。
朝はテントにちゃんといたけどな…と考える。
あれは朝練した後だったのかな?
「あ? なんか炯、うなされてないか?」
「本当だ、起こした方がいいかな…?」
「炯、炯?」
「おい、炯?」
「…全然、起きないっすね…」
*
両親が明ばかり溺愛している気がするのは、きっとまだ小さいからだと信じていた。
でも、両親に笑いかけて貰った記憶がないのも、また、事実だった。
そんな筈ない、と話題を見つけては話しかけてみたりもした。
母は冷たく「そう」としか言わない。
父には無視された。
それで、父の腕を掴んだ。そうしたら、首を絞められた。
父とは、未だに会話が成立したことがない。
私が何か凄いことをしたら、振り向いて貰えるだろうか。
明に向ける視線を少しだけ分けて貰いたくて、勉強も、サッカーも頑張ったけれど、明には及ばなかった。
FWの明に負けて、私はFWからも降ろされた。
けれどサッカーは、一番明との差がなかった。
私は、いつも一人だった。
無口で、人見知りする私は近寄りがたい雰囲気を出していたのかもしれない。
私はサッカーにのめり込んだ。
もうサッカーしか、認めて貰える可能性がないから。
ジュニアチーム最後となる大会が近づいてきて、私はいっそう、がむしゃらに練習した。
このままジュニアチームを終えてしまったら、これからもずっと、一人で居なければならないような気がして、怖かった。
怖くて、怖くて、眠ることもままならなくなった。
練習中に倒れて、病院に運ばれた。
目を覚ましたとき、そこには明の顔があった。
「姉ちゃん、大丈夫か?」
「……」
「過労だってさ。もう、いくら大会が近いからって無理は駄目だろ!
今日は入院しろって、先生が。」
「入院…? だめ……駄目だよ。」
「え…?」
「練習しなきゃ、もっと強く…強くならないと……」
「な、何言ってんだよ!今は休まねぇと、体壊れるぞ!」
「壊れたっていい!私は…私は……っもうサッカーしか、ないの…!!帰らせて!!」
勢いよく立ち上がれば、目眩がしてベッドに倒れ込む。それでも起き上がろうとしたら、明に押さえ込まれた。
「落ち着けよ!!姉ちゃん!」
「っ…離して!離して、離し……っぁあ」
息ができない。
見えない大きな手が、私の首を掴んでいる。
私の名前を呼ぶ明が、あの時の父の目に重なった。
自分でも呼吸の音がわかるのに、酸素は全く入ってこない。
やがて、看護士さんが飛んできて、朦朧とする私に紙袋を当てた。
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※過呼吸症候群