花鳥風月

□なつのかげ
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その年は、いつも以上に暑い夏であった


陽子は茹だる様な暑さから逃れようと積翠台から出る

大きな池のある庭院に来たとき、溜息が聞こえた


涼を求めて先に路亭にいたのであろう景麒を見て、陽子が思わずたじろぐと、それを認めた景麒の溜息はさらに深くなった


「水浴びなら他所でお願いしたい」

「…別に、そんなつもりはないよ」


口を尖らせて反駁すると、暑さなんて関係ない様な涼しい顔で、さようで、と呟いた



先に制されてしまったので、池に入るのを諦め、仕方なく自分も路亭の腰掛けに座る


「………暑いな」

「そうですね」

「…でもケイキはあまり暑そうに見えない」

「主上と変わりませんが」

「重ねを脱いだら…」

「なりません」

「……石頭」

「…なんとでも」

「……」


暑さに焦れるあまり、言葉にだんだん剣が含まれていく
しかし、それすらも体力を奪うだけだと、結局は沈黙を選ぶ

路亭だから日陰ではあるし、室内より風通りは良いが、全くもって涼しくない

気だるげに息を吐き、欄干に背を預けると景麒が呟いた

「…こちらに居れば、水の音が涼を運んでくれるので少しは凌げましょう」

他所へ行こうか考えた時に、思考を読んだように言う

確かに、此処の池に流れ込む水は、奥にある岩の間から滝のように落ちている

水音は確かに心地良い

場所を移るのも面倒なので、そのまま耳を傾けた


視線を景麒に向けると、白磁の首を、一筋の汗が流れた

それを見て、普段無機質めいている半身が、確かに生きて、暑さを感じているのだと不思議な感覚を覚える


「…確かに、涼しげではあるんだけど…」


袖でぱたぱたと己を扇ぎながら眉をしかめる

「…やっぱり、暑いものは暑い…」


もう駄目だと足を投げ出し、石の腰掛けに伏した

一つ息を吐き立ち上がる景麒には目もくれず、眸を閉じる

石の硬くてひんやりした感触が、心地良かった







そのまま








どの位時間が経ったのだろうか


密やかな気配に眸を開ける

眸を開けると覗き込んでくる半身と視線がかち合った

「…ケイキ」

もぞもぞと動くが、酷くだるかった

「眠っていたのか…」

「そうですね。良くお休みでした」

淡々とした口調が嫌みの様で、思わず言い返そうとしてはたと気がつく


日はだいぶ傾き、路亭は既に、日陰の役割を果たしていなかった

だが、陽子の頭上には、逆光を背負った景麒の鬣が輝いている

眠りにつく前よりじっとり汗ばんでいる半身が


「ケイキ…いつからそこに」

「…起きれますか」

噛み合わない会話は、彼なりの照れ隠しであることを、陽子は知っている

「起きれる。躯が少しだるいけど」

「こんな処で眠るからです」

景麒が手にしている扇で緩やかに扇いでいる

僕が生み出す風は、自らを扇いでいる様でいて、実は陽子に向かっている

掌に握られている布は、既に幾ばくかの汗を含んだように色が変わっていた

「これを」

「ん」

躯を半分起こすと杯を傾ける景麒に、思わずくすりと笑ってしまう

「用意のいいことだ…」

笑ったのが気に障ったのか、憮然とした表情になる

「…熱射病か」

該当する言葉が無いらしく、少し首を傾げて疑問符を浮かべているのが更に笑いを誘う

「主上」

「悪い。飲むから」

杯に入った液体は、予想に反して温い
漬けた梅が入った白湯だった

「…ケイキ…」

「薬ですから…」

「お前が飲め」

「もう飲みました」

「…」

苦い表情で残りを飲み下すと、掌で横になるように押される

「なんだ」

「……」

ついうたた寝をしてしまったのだから、常ならば嫌みの一つや二つは紡がれる口が、今は沈黙を守っている

それどころか、優しいとさえ言える僕の行為に驚きを隠せない

「雨でも降るかな」

「…望むところです」

ゆっくり、たおやかに扇ぐ景麒の所作が、一種の舞踊を見ているようで美しかった

知らず笑んでいたようで、不満そうに眉を寄せる半身が横目でねめつけてくる

「なんですか」

「いや、甲斐甲斐しいケイキなんて、初めて見たからつい」

掌を伸ばして、扇ぐ景麒の掌を取る

「もう、大丈夫だから。ありがとう」

「…」

夏独特の湿り気を含んだ暑い空気に負けないくらい、景麒の掌も熱かった

「綺麗な扇だね」

くすぐったい気持ちを隠したくて、景麒の掌は離さずに、扇の話をする

薄荷色の薄い布に、可憐な蓮の花が刺繍されている
蓮の紫が、景麒の眸の色と同じで、魅いられる

「…主上が池に入られては風紀が乱れますので、お貸しいたしましょう」

「いいの」

「はい。いかに美しくても、本質は道具。道具は使われてこそ、幸せを見いだせましょう」

伏せた金色の睫毛が震えている

それは例え話で、道具とはお前自身の事かと問い質そうとした

麒麟は天意が、民意が駆け抜ける生き物だからかと

けれども、何故かできなかった

其処に、一本の線が引いてあるように

越えられなくはないけど、越えてはいけないような気がする線が

「ケイキは…使わないってこと」

小さく尋ねたが、答えは無かった

握る掌に、そっと扇を渡される




景麒が遮る光は陰となり、陽子に落ちている


横たわったままの陽子は、扇で顔を隠し、ぽつりと罵った

「…馬鹿だな。お前だって暑いだろ」

お前は道具じゃないだろう

汗もかく、話だってできる

不器用な優しさだって


暑さなんて微塵も感じさせない静かな声が落ちてくる

「熱に浮かされる日が、私にも時たまある…ということです」



だからどうにも仕様がないのだと


彼の麒麟は落ちる汗を拭った

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