花鳥風月

□こうしんのじょう
1ページ/1ページ

例えば私が貴方を愛しているとして


その事が貴方を苦しめるのならば




私の気持ちは

泡沫となって消えてしまえばいい




いいや




そんなものはきっと

最初からなかったのだ



だから



さようなら

屍の恋



―――――――


「主上!」

唐突な覚醒と同時に、景麒は叫んでいた

しかし堂室には応えるものなく、叫んだ声は微かな反響とともに霧散する

此処が己の室であることと、主が傍にいないことを理解したとき、間口から、かたり、と音がした


「失礼致します。台輔」


室の主の承諾無しに進んできた冢宰に、しかし咎めることなく相対した

人払いをした旨を伝えると、景麒も何事かを地中に呟く



浩瀚は感情を殺しきれない、苦み走った顔をしていた



女王が溢した
『こうしんまち』

そして自身を『穢れた咎人』と言った


主と同じ倭国生の女御に訊くと、彼女も曖昧にしか憶えていなかったが、教えてくれた



そして浩瀚は、自分が思い違いをしていたことに、漸く至った




女王は知っていたのだ
己の抱いた慕情に



そしてそれが、泡沫の想いであることも



彼女は確かに、色恋や自身の心に疎い。少女らしい鈍さは、年若くして尊厳ある王になった彼女の本当の姿を垣間見れる、数少ない瞬間であった


そこに安堵していた


だが、あれから幾年たったのか


姿は変わらずとも、年を、時間を重ねるだけ、心は変化していくというのに



彼女は禁忌の情をひた隠したのだ




しかしここにきて、心情が硬化したのは何故か


台輔のためか







家族から離れ

故郷から離れ

王になり

少女をやめ

慕情を葬った



今まで持っていたものを失してしまった彼女は、新たに芽生えたはずのものまで手離すしかないのか



王とは、かくも哀しく寂しい途を、歩まねばならないのか


浩瀚の形のいい眉が潜められる
彼女が己を賭けても守りたいものを、自分が壊していいはずがない


全てを伝えることはできない



けれど



交わらない二人を、繋ぐ何かが必要なら


「気にかけてくださると思ったのですが、私の思い違いでした」


百官を震え上がらせる声音が、景麒に降りそそぐ


「主上と何をお話されたか存じませんが。主に距離を置かれた、ならばと貴方まで離れるおつもりか」

「違う」

「厭われたからと、貴方まで相手を厭うのか」

「違う!」

「ならば!」

お互いを打ち消すように声が大きくなってしまう事は、当然なことのように思われた

だが


「……貴方は彼女を、求め続けて。変わらずに傍にいてください」


一瞬の沈黙の後に浩瀚から発されたのは、乞うような、祈るような呟きだった
自分を叱責した声とのあまりの変りように、思わず景麒は顔を上げる


「主上が何を思ってらっしゃるのか、私にはわかりかねます。しかし、わからないからと言って突き放したり、理解する努力を惜しもうとは、私は思いません」


浩瀚の拳が、痛々しい程白くなっていく


「勿論、引くべき時もありましょう。しかし貴殿方は…」


何故、目の前の男はこんなにも悲痛な顔をしているのだろう
二人の男は互いにそう感じていた
口にはしなかったが



「……私でなくとも良いのでは」

「彼女から全てを奪った貴方が、それを言うのですか」


びくんと
打たれたように体を震わせる景麒


「失礼。言い過ぎました。しかし、そう思われても仕方ない事は、貴方もご存じのはず」


そう
自分が彼女にあったものを、全て奪った
だからこそ、少しでも彼女の傍らにあろうと
ひとりにすまいと


「貴殿方の結び付きは、親子や恋人、友達。そんな言葉では表しきれない命で繋がる絆。他の誰にも代えられず、断ち切ることもできない」


例えお互いを憎みあおうと、放棄することは赦されない
ならば

背を向けあって滅ぼすか

手を取りあって導くか


「ならば足掻きなさい。貴方自身の心と、向き合って」


「…私の心…」





項垂れる景麒をそのままに、浩瀚は退室の辞を告げる

世界にたったひとり、残されたような静けさの中で
しかし景麒の双眸は、何かを捕えたかのように光を含んだ



浩瀚が堂室を出ると、空はすっかり白くなっていた
新たな一日の幕開けは、こんな日も変わらず訪れる


どんなに悲嘆にくれる人の頭上にも
幸せに満ち溢れている人の頭上にも


変わらずに


明けない夜は無いとは、よく言ったものだ





台輔が今後主にどう接していくかは、浩瀚にもわからない
決めてしまった主の、頑なな心をほどけるか
それが台輔にできるか



何もしないよりはましだ



珍しく投げやり気味な思考に陥っていることに自嘲を向けつつ



夜に囚われたままの少女の元へ、歩を速めた

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ