鵺奇譚

□夜の蝶
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どのくらいの時間が経ったのだろうか。

うとうととしかけた私の耳に、声が聞こえた。

何を言ったのか聞き取れない程の小さな声。
それが沢山の声だという事に気がついたのは、最初の声からかなり経った後だった。

ざわざわ

ざわざわ

ざわざわ

病院内だというのに、こんなにざわめきあっていて良いものだろうか。

何よりも自分が不快でならなかった私はベッドから降りると、注意するべくドアへ向かった。
少しだけ開けて外を窺おうとした、その隙間から、一羽の白い蝶が滑り込んできた。

「蝶々…?」

私が目で追ううちに、蝶は瞬く間もなく増えていく。

ばたばたばたばたばだばた

夢かと思った私の期待を裏切るように羽ばたきがリアルに響く病室。
沢山の蝶がひしめき合う。

その光景が恐ろしくなった私は、ドアを開けて廊下に転がり出る。
隣の病室には母と祖父が居る筈。

そう思って、飛び込んだ病室に人影はなく、あったのは空のベッドだけ。
主を失った呼吸器がシューシューと虚しい音を立てている。

無人の病室に恐怖心は膨れ上がった。
再び部屋を飛び出すとナースステーションへと走る。

誰もいない廊下。
辿り着いたナースステーションにも明かりが無い。

有り得ない。
誰もいないナースステーションなんて。
これは夢だろうか。

誰かに会いたい。
誰でもいい。

誰か――

声を発しかけてふと、先ほどのざわめきが再び聞こえてきた事に気づき安堵した。

誰かいる。
沢山の人が其処にいるではないか。
駆け寄ろうとした私の足は、一歩だけ踏み出して止まった。
奥の廊下から、こちらに向かってくる人影が見えたのだ。

ざわざわざわ 

ざわざわざわ 

ざわざわざわ

沢山の人がこちらに歩いてくるのが分かる。

だが、何故?
私の足は動かず、眼は閉じることが出来なかった。

何故だ。
何故そんなに大勢の人間がこんな夜中に、しかも病院内でざわめきながら歩いてくるというのだ。
電灯の明かりもなく、点いているのは非常口の緑のランプだけだというのに、何故人々の姿は白く闇に浮かんでいるのだ。

そして何故、寝たきりのはずの祖父が自らの足で歩いているのだ。

気づけば無数の白い蝶の群れが飛び交っていた。
恐怖で自らを抱きしめたまま、立ち尽くした私に眼もくれず、人々は歩いていく。

無数の蝶が飛び交い、ぶつかり合い、羽が擦れる。

ばたばたばたばたばた
ばたばたばたばたばた

すれ違いざまに祖父の口元が動いた。


「夜に飛ぶ蝶を、捕まえてはいけないよ」


「お爺ちゃん!」

振り向いた先にあるのは静寂。

脂汗を握り締め、その場に座り込んだ私の耳に聞こえてきたのは、ざわめきではなく、機械音。

祖父の死を知らせるナースコール。
祖父は逝ってしまった。
あの無数の白い蝶の群れとともに。

「夜に飛ぶ蝶を、捕まえてはいけないよ」

その時私は漸く思い出した。祖父はこう続けたのだ。

「それは死者の魂なのだから」
―――――と。

夜の蝶 了
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