月楓堂九十九語り

□語りの八 十五夜花瓶
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ふと見れば、ガラス越しに少女がこちらを見ていた。

今時珍しい和装の少女。
店主と視線が交わると、少女は戸惑いなく店の戸を開いた。
「いらっしゃいませ」
とりあえず客は客。
何時もの通り咥えた煙管で紫煙を燻らせながら、少女に近づいてみる。

類稀なる美少女―――と言っても過言ではないだろう、その容貌を煙草の煙に嫌悪の様な素振で、一瞬眉を寄せたが、すぐに表情を無くす。

そして、窓辺の品に指を差した。

「この花瓶に、これを活けたいのだけれど」

「はぁ?」
手にしているのは薄。

「この花瓶。釉で月が描かれているのでしょう?」

ほう。
素直に感嘆した。
十そこらの童女に、この花瓶の意図が分かるのか。
「それで薄?」
「ええ。今夜は十五夜だわ。いいでしょう?」
「どうぞ」
少女の好きにさせることにした。

何故だろう。抗いがたい何かが少女には漂っていた。
強いて言うなれば「威厳」のような。
着物の捌き方も堂に入っている。

「どうかしら」

意見を求められても、華道には疎い。
「いいですね」
素直に褒めてみた。
少女は少しだけ微笑んだ。
それも一瞬。
再び表情を無くしてしまうと、一礼して背を向けた。
「…」
用が済んだのだ。
追いついて店のドアを開けてやる。
「有難う」
「どういたしまして」
最後まで凛とした態度は、ふと心の隅に誰かの面影を過ぎらせた。

「…一つだけ忠告を」

ドアを潜ってすぐに、少女は振り返る。
「その煙管で燻らせているそれ。塩酸ジアセチルモルヒネね。少量とは言え、吸い続けるのは体に悪いと思うわ」

それだけ言うと、唖然とした店主を尻目に、少女はゆっくりと歩き去った。

「…なんで分かったんだ」

煙管を口から落としそうになって、あわてて手を添えた。

暫く呆けた様に立ち尽くしていたようで、人の気配に気づけなかった。

「何を茫としているの」

聴き慣れた声に、珍しく心臓に負担がかかる。
「こ、これは水藻様!」
咥えていた煙管を隠すようにして、一礼する。
いつの間にか、店の前には常連客のリムジンが止められていて、その主は威厳に満ちた美しい微笑を浮かべて立っている。
「も、申し訳ありません!ど、どうぞ…」

くすり、と笑われた。

「貴方にしては珍しいわね」
「…何のことでしょうか」
細い指が窓を示す。
先ほどの少女が活けた薄。

「今日は十五夜ですものね」

「それは、先ほど…」
はっとした。

あの少女の微笑が目の前の美しい人の微笑と重なって見えた。
「ある方が活けてくれたものです」
「そう」

美しい常連客は、まだ紫煙が昇る煙管に目を留める。
「…まだ、それを吸っているのね」
「え?」
「塩酸ジアセチルモルヒネはやめたほうが良いと言ったでしょう」

塩酸ジアセチルモルヒネ。
俗称ヘロイン。

人聞きを気にしての事なのか、それとも彼の人が医家だからなのか、わざわざ長ったらしい名前を使う。
「大分薄まったみたいだけど」
心配そうな感情が、氷の瞳に過ぎる。
これが見たくなくて、この方の前では極力吸わない様にしていたというのに。
不覚。

そういえば、初めて言い当てられた時も、この心配の色が浮かんだのを覚えている。

はたと思い出す。

先刻の少女も瞳にこの色を湛えていた。
まさか。
白皙の横顔を見つめる。

目の前の美しい大富豪の未亡人は、微笑むだけだった。

十五夜花瓶  了

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