月楓堂九十九語り
□語りの五 白紙の本
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不思議な店だった。
私の手に残った本が、夢でなかった事を物語る。
別に何が欲しい訳ではなかった。
その店に足を踏み入れたのは、ただ、物珍しさからだったのかも知れない。
店の名前は―――そう、月楓堂とか言ったか。
店主は今時珍しく和装で、煙管を咥えていた。
「いらっしゃいませ。ごゆっくりご覧下さい」
少し投遣りな、マニュアル通りの接客といった感じで、本当に何かを売りつけようといった雰囲気ではなかったので、少し安心した。
改めて辺りを見回してみた。
骨董屋と思っていたのだが、少し違うようだ。
見るからにそれらしい、壷や茶碗、掛け軸があったりする中で、よく分からない人形や、根付、雑誌などまで置かれている。
その中で、私が気になったのは、窓際にちらりと見えていた―――一冊の本。
「君…、あの本は…売り物かな?」
店主は、紫煙を吐き出すと「そうですよ」と、頷いて見せた。
そっと手を伸ばして本をとると、私へと差し出す。
「どうぞ」
欲しかった訳ではないが、折角なので受け取った。
思った通りのずっしりとした重みに、満足して頁を開く。
「…?」
中身は白紙だった。
全て真っ白なまま。
「君、これは…」
「本です」
「何も書いていない」
「見えないだけですよ」
「わからない」と首を振った。
だが、何故か手放せない何かがこの本にはあった。
「この本は…何が書かれているのだろうか。…その、私には何も見えないんだ」
店主は薄く笑った。
「私にも見えません」
結局私はその『本』を買ってしまった。
まるで狐に化かされたような気分で店を出て家路に着いたはいいが、妻を亡くしたばかりの、一人きりの家には戻る気が起きなかった。
公園のベンチに座り込んで、本を膝に乗せたまま暫く茫としていた。
ふと気づいた時、空には月が昇っていた。
茫としたまま、ぼんやりと店のことを思い出す。
不思議な店だった。
私の膝の上の本が夢ではないことを物語っている。
白紙の本。
薄暗い中、月明かりで頁を捲って見た。
「…!」
白紙と思っていた本に文字が並んでいた。
『…ある晴れた日の午後、私は何時もの様に通い慣れた道で彼女に出会った…』
これは記憶だ。
妻と出会ったばかりの私の記憶。
私と妻の思い出が、白紙の頁に文字になって流れ出す。
月光に浮き上がる、私の思い出達。
月の光が織り成してくれる、消して消えない私の軌跡。
月の光の文字の中、亡き妻は笑っていた。
白紙の本 了