鵺奇譚

□祖母雛
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苦しい。
咳をする度、喉が焼け付くように痛い。
今年も春先のインフルエンザにかかったらしく、私は何時ものように一人、部屋で寝ていなければならなかった。

旧家の黴臭い和室。
一年前に祖母の家に越してきた私達。
未だ和室には慣れない。

日に焼けた畳の地平線上にある、障子がからりと開いた。

「えみちゃん。喉が痛いだろ?」

祖母だ。
枕元にそっと置いたお盆の上には、祖母が作ってくれた林檎ジュースがある。

「蜂蜜は体に良いんだよ。さ、お飲み」

体を起こさずに、折り曲げたストローで一口だけ飲み込む。
喉を通る時、少しだけ痛かったが、口の中はさっぱりしていた。

「今年もこの時期が来たんだねぇ。さ、出してあげなきゃ」

祖母は背後の押入れから大きな箱を出す。
私は茫と祖母の手元を見ていた。

大きな箱の中には、小さな箱が入っていて、その小さな箱からは小さな装飾品や刀、楽器。そして箪笥や鏡台、人形が現れる。

「一年ぶりね。今年も宜しくねぇ」

祖母は一つ一つ丁寧に取り出し、人形一人一人に声を掛け、刀や楽器を持たせる。
いつの間にやら組まれていた、真っ赤な段に一つずつ並べていく。

「えみちゃん。お雛様はねぇ、その家の子供の身代わりになってくれるの」
「…」

「本当は、こんな風に一つの人形を、毎年飾る物ではなかったのだけど」

何処から取り出したのか、それとも最初からあったのだろうか。膨らみ始めたばかりの桃の花枝をそっと添える。

「でも、こうして留まるようになってからのお雛様は、大切にしてあげるほど優しい綺麗な顔になってくる。だから、大切にして、毎年出してあげると…」

祖母の手が私の頭を優しく撫でる。


「えみちゃんを守ってくれるからね」


祖母の笑顔が、声が遠くなる。
私はゆっくりと眠りに落ちた。


目を開けた時。私は一人だった。

「おばあちゃん…」

喉の痛みが消えている事に気づき、体を起こす。
熱も引いたようで、体の気だるさもなくなっていた。

「…?」
枕もとのお盆も、祖母も、出したはずの雛壇も消えていた。

遠くから足音が近づくと障子が開き、母が様子を見に来た。
「えみ。寝てなきゃ駄目じゃない」

「お母さん。おばあちゃんは?」

母は怪訝な顔をして私の額に手を当てる。
「熱は引いたみたいね」

「ねえ。今ね、おばあちゃんがお雛様を出してくれて…」

「えみ。何言ってるの。おばあちゃんは一年前に亡くなったでしょ」
「え…」

振り向けば、背後にあった押入れと思った物は、祖母の仏壇。

「ほら、えみの部屋。そうじ終わったから移動して良いわよ」
「…うん」

枕を持って仏間を出る。

そう、私達家族がこの家に来たのは、祖母が亡くなったからだった事を今思い出した。

そして今日が、3月3日である事も―――


祖母雛  了

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