鵺奇譚

□秋の人魚
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誰もいない海岸。
シーズンが過ぎ去った海は悲しいほどに寒々しい。

山の尾根が色づき始め、秋の気配が忍び寄り始めた浜辺へ、僕がスケッチブックを抱えて来たのは誰もいない浜辺を描きたかったからだ。

適当な岩場に腰を下ろして浜辺と、軽く紅葉している山を構図に入れながら鉛筆を走らせる。

どれくらいそうしていただろう。
頬に当たる風が肌寒くなってきて、ふと視界を広げた僕の瞳に飛び込んできたのは、目を焼くほどの白と、それに対照的な柔らかさを持った黒。

くるりくるりと浜辺を駆け回るそれは、一人の少女。

僕より少し年下だろうか。
肌寒い浜辺を飾り気のない白いワンピース一枚を纏い、真直ぐで長い黒髪を柔らかに波打たせて、細い素足で波打ち際を走り、飛び跳ね、回る。

まるで二本の足があることを喜ぶ人魚姫のように。

彼女をみつめたまま微動だにしていない自分に気づくと、急に恥かしくなりスケッチブックを畳んだ。

ぱたむ、という微かな音に、少女は漸く僕の存在を認めた。

「…」

無言で見つめられる。
何の表情もないその視線がくすぐったくて、僕はあわてて声をかける。
「こ、こんにちは。あの…寒くない?そんな格好で…」

少女は軽い足取りで僕に近づくと、眉上で切りそろえた前髪を揺らせて首をかしげた。

スケッチブックが気になるようだったので、広げて見せる。

「絵を…描いてたんだ。次の中文連に出品する…」
少女は眉根を寄せて、僕を見上げる。

「分からない…よね。絵を描くのが好きなんだ。特に海の絵を描くのが好きなんだよ」

少女がぱらりぱらりと捲っていくと、紙面には海の絵ばかりが広がる。
楽しそうに僕の絵を見ている少女がぴたりと手を止めた。

「え?…何?」

細い指が示すは海辺に佇む女性が描かれた絵。
ニコニコしながら何度も指でなぞる。

「気に…入ったの?」
そっと彼女の指を離すと、その絵を破って少女へ差し出す。

「あげるよ」

絵を手にしたまま暫くぼうっと僕を見上げていたが、意味が分かったらしく満面に笑みを浮かべた。

僕がスケッチブックを閉じている間に、少女は嬉しそうに浜辺を駆けて行った。

手には僕が描いた絵。
波打ち際で冷たい水を跳ね上げてくるくる回る。
その姿があまりに綺麗で。
僕は閉じかけたスケッチブックを再び開き、少女が居る海辺を描き始めた。
夕日が赤く染めた雫が、白い裾に弾けて彼女を飾る。


時間は無慈悲にも太陽を沈め、何時しか辺りが薄暗くなって紙面が見え辛くなっていた。

もう家路に着かなくてはいけない時間。
急いで道具を仕舞い、岩から降りる。
「ねえ、君は帰らなくていいの?」
少女に声を掛けたが、首をかしげたまま。
「家族が心配するよ。家、何処?」

送ってあげようと思ったのだ。
だが、少女はふわりとした笑顔を浮かべるとすっと指を向けた。

海へ。

「…海?」
こくりと頷いた少女は、ひらひらと手を振る。

「うん…ばいばい」
僕も手を振ってその場を離れる。
離れがたい心とは裏腹に、足は家路を急ぐ。
夜の寒さが肌を刺す。

一度だけ振り返った。
白いワンピースがくるりくるりと踊っていた。

朝。
家の中がばたばたと騒がしかった。

「どうかしたの?」
玄関で立ち話をしていた兄から、海辺の事件を聞いて僕は弾かれたように海へ向かった。

海辺には人だかりが出来ていた。
ぼそりぼそりと人の口から放たれる言葉に耳を傾ける。

「…多田んちの嬢らしい」
「ああ、あの少し足りない…」
「遺体はまだあがらないとか…」

人だかりを抜けて浜辺に出る。
そこに僕が想像していたようなものは無く、ただ、薄汚れてはいるが見覚えのある白いワンピースがぐっしょりと濡れて打ち上げられていた。

「多田さんちの子のものらしい。ほら、生まれつき頭の病気もった子が居たろ?」
着いて来た兄が小声で教えてくれた。

「昨日、家を抜け出したまま帰ってこなかったんだと。きっと海に落ちたんだ」
「…違うよ」
兄が痛ましげに言うのに、僕は小さく否定した。

「あの子は…海の底に、本当の居るべき場所に帰ったんだ」

一頻り騒いだら興味を失くしたのか、一人、また一人と野次馬は消えていった。
残されたのは僕一人。

僕だけは知っている。
少女は海に帰り、人魚になったのだ
―――――と。

そう、信じている。

入江で何かが水を撥ねた。
波の中に尾ひれが見えた気がした。


秋の人魚 了

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