鵺奇譚

□暮れの声
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年の暮れ。
家族で過ごす老舗の旅館。
妻と娘が温泉に行っている間、1人ゆっくりとした時間と空間を楽しむ。

静かな部屋。
窓辺の少しひんやりとした空気に、喧騒をしばし忘れる。
「――」
どこからか声がした。

部屋の隅。
薄闇に目を凝らす。

「――」

それは微かな声で、何を言っているのかわからない。
それでも何か囁く様な声が耳に流れ込む。

隣の部屋だろうか。
それとも廊下の声だろうか。

そっと耳を澄ませる。
「――」
廊下から音が聞こえる。
否。
この声は違う。
もっと近いところ。
そう、例えば――


窓の――


「――で」


声のする場所へ近づく。
障子に明かりが遮られるその薄闇。
古い木材の匂いが濃くなる。
声がだんだん近くなる。

一体何を言って――

「――いで」
「パパただいまー!」

はっと顔を上げる。
娘と妻が戻ってきた途端、夢から目覚めたように日常の音が一気に戻ってきた。

「温泉広くて気持ちよかったね」
「明日の朝も入ろうかなー」

2人が動くたびに生まれる音。
それだけではない。
今まで気が付かなかった、廊下からの音も聞こえてくる。
何故、今まで聞こえてこなかったのか。

もう一度暗がりに目をやる。
耳を澄ませてみたが、もう声は聞こえてこなかった。

遠くから、除夜の鐘が鳴り響く。
もう声は聞こえない。聞くことが出来ないのだろう。
そう、思った。


暮れの声  了

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