時の井戸

□其の名は〜自身
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信長。

そう輝宗は言った。
そんな名前は知らない。
だが、ここは自分が生まれるより更に「先」だと理解していた吉法師は、押し寄せる緊張の中必死で思考を巡らせる。

自分が尾張の吉法師である証拠。
それが今此処で披露できなければ―――

嫌でも目に付く良直の体勢。
自分は騙りとして、輝宗が言う「一介の童子」であろうと斬り捨てられるのだろうか。

一介――の?

ふと思い立った。
「輝宗殿」

全身が汗ばんで気持ち悪い。
もしかしたら、情けなくも震えているかもしれない。
それでも、今此処で張らずに、何時虚勢を張る。

「その様に騙りと云われるならば、この吉法師の知る限りの自身のことを語ろうではないか」
「ほう?」

これは賭けだった。

こんな遠方にまで知られている「尾張の織田信長」の名前。
ならば、それはきっと伊達輝宗にとって、何らかの政治に関わるものであるのだろう。

そう、踏んだ。

例えそれが輝宗の知らぬところであっても、吟味する時間は稼げよう。
その間に、逃げることも出来る。

だが、吉法師は逃げたくはなかった。
逃げたらきっと―――二度と梵天丸に会えなくなる気がしたから。


それだけは絶対に嫌だった。


吉法師は知る限りのことを語った。

「時の井戸」のこと。

父は織田信秀で、母は土田御前と呼ばれていること。
信広と言う腹違いの兄と、勘十郎という弟が居て。
弥三郎や勝三郎など近習が居て。
平手や青山、林、内藤と言う傳役に囲まれて。

「その中でも、林は煩くてな。そこな良直と一緒だ」
「何っ!!」

時に輝宗と、廊下に控えている喜多の笑いを招いた。

主家は斯波氏であること。
神官の家柄で、神事を執り行うこと。
熱田神宮の宮司と仲が良いこと。
叔父の信康が格好いいこと。

最終的には、もう身内自慢になっていたかもしれない。
ただ、それだけ大好きな人々がいて、自分は騙りなどでは無いという事を伝えたかった。

自分こそ「吉法師」なのだと。


「この間も叔父上と里芋を…」
「もうよい」

はっと気がつけば、夢中になって家族の話をしていた。
苦笑交じりに輝宗が話を止めた。
良直もバツが悪そうにそっぽを向いている。

家族構成は、輝宗の知り及ぶ限り合っていた。
しかし間者にしては、余りに幼稚な話で殊更父親と叔父の話には熱が篭っていた。

ただの童子らしい身内自慢にしか聴こえなかった。
それは良直も一緒だった様で、途中から脇差から手を離して憮然としていた。

「そなたが何者であれ、間者では無さそうだ」
そう輝宗が破顔すると、続く良直が

「お前の様な気の利かない者が間者で、こんな中央まで突破されたとなれば伊達家家臣の面子が丸潰れになるわい」

と、早口でぼやいた。
「違いない」と輝宗も喜多も声を上げて笑った。

話を途中でやめさせられて目を丸くしていた吉法師も、何時しか緊張から解き放たれていたことに気がついて一緒に笑う。

吉法師は四人の傳役、叔父に感謝した。

家族構成ならばきっと知られて居る事だから、誰でも教えられれば言えよう。
しかし、傳役、叔父の武勇にまつわる日常になればそれは当人しか知らぬこと。
その上、聞いたとしても、全く他の人間の利益には成らぬことなのだから。
馬鹿馬鹿しいことこの上ない。

それを命を懸けている場面で、満足げに話す目の前の童子が間者であるというのなら、それは凄い腕利き。
あるいはただの幸せな童子だ。

嗚呼。
俺は幸せな童子なのだ、と今更気がついた。
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