その日、ノアの新参者であるビスクドール事イヴは、空前絶後の事態に遭遇していた。
「イヴたまぁあああっ!! バカな事は止めるレローーッ!!」
もとい、レロは戦々恐々していた。……いや、この光景を目の当たりにしたら、誰だって慌てふためくだろう。
「大丈夫! 人間はとべる!」
「それは本の中だけレローーーッ!!」
抱えていた本を見せびらかすように、前へと突き出すイヴ。
これが安全な場所、或いは地面の上だったなら、レロとて大声をあげたりはしない。彼はビスクドールの保護者同様に些かな不幸ではあるが、元々は温厚で好色人なのだ。……多分。
そんなレロが慌ているのは、当然今イヴがいる場所に問題がある。と言うのも、彼女は遥か上空――ノア宅の屋根の上へと立っていた。しかも、よりにもよって一番高い所に一人で突っ立ている。
そこで何をしようとしているのかは、先程の言葉から言っても容易く想像がつくだろう。
「ともかくっ、今からレロが行くからそこで待ってるレロ!」
大方手に持っている本に影響され、人間は飛べると思い込んでいるに違いない。
確かに、保護者事ティキのような能力があれば可能だが、生憎イヴにはそんな力はない。故に飛び降りた場合は必然的に大怪我をするし、下手をしたら――いや、考えたくも無い。
絶対に動いちゃダメレロ! と声を荒げては、大事になる前に、カサコソと壁を這って……もとい、イヴに飛んでいる事を悟られないように登っていく。もしここで堂々と浮いて行ったのなら、「やっぱり飛べる!」と言って、到着前に飛び降りてしまいそうだ。
記憶という色を無くしたビスクドールは、只管に無垢で純真なのである。……まぁ、時々無知で危なっかしいだけでもあるが。
「あわわっ、風が強いレロ〜」
「大丈夫?」
「こ、このくらい伯爵たまの怒りの笑顔に比べれば……!」
もしイヴが全身包帯巻きになったとしたら、間違いなくレロは粉々にされるだろう。それも千年公だけでなく、家族全員から袋叩きに合うに決まっている。
人間には無い特別な能力を持つ一族。アクマよりも強く、また残酷な彼等。そんな彼等に袋叩きにされたのなら、間違いなく命は無い。寧ろ魂とて現存のピンチだ。
「ははははやく降りるレロ!」
強風だけではない振るえを身体に纏いつつ、イヴの手へと取っての部分を握らせる。登っている間に下る方法を模索していたのだが、やはりこの方法しか思案できなかった。
「イヴたま、絶対に途中で手を離しちゃダメレロよ!」
前もって散々イヴに釘を打っては、一瞬、風が弱まった所で胴体の傘を開く。
次の瞬間突風が吹き荒れたかと思えば、風に煽られるようにレロと、そしてイヴの身体が宙へと舞い上がった。あまりの強風に思わずレロから悲鳴が上がったものの、その言葉も一瞬で風に吹き飛ばされてしまう。
だがそれでも、千年公の巨体を支える程の頑丈な傘。
「つ、ついたれろ〜」
強風に壊れる事なく、ゆらゆらと宙を待っては、ストンッと地面へとイヴの足をつけさせた。よく目を回さなかったものだと、自分で自分を褒め称えたくなってしまう程だ。――そしてそれは、無垢なビスクドールも同じであるらしく。
「レロ、もっかい!」
「……へ?」
すっかり彼の根性……もとい、空を飛ぶ事に感動していたのだった。ともなれば一度ですまないのが人間、いや、子供の原理。
結局この後数度……正確に言うのなら八回程繰り返す事となり、まして数度着地に失敗した事で泥だらけになった二人は、言うまでも無くお母さん……もとい千年公からお怒りを食らったのだった。
I can fly!
「レロ凄いすごーいっ!!」
「あああ暴れたら落ち……ギャァアアッ!! 伯爵たまぁああっ!!」